第8話 プールサイドの焦りと鈍感

 教室に入ると、オレは真っ先に斗歩を探して辺りへ視線走らせた。目当ての姿は、すぐ見つかった。自分の席で頬杖ついて、本読んでやがる。近くには、メガネのクソ野郎とデブのクソ野郎がいた。よく斗歩とつるんでる奴らだ。こん時は斗歩の席に集まって、二人でベラベラ喋ってた。

「おい、澤上」

 オレが斗歩の席に行って声かけっと、斗歩より先にメガネとデブがこっち見た。メガネの方の眉間が険しくなる。

「おはよう、高橋くん。また何か澤上くんに突っかかってくる気か?」

「いいよ、田井たい

 あ? ってオレが凄むより前に、斗歩がメガネを止めた。

「なんか用か? 高橋」

「こっちが聞きてぇんだよ。朝、声かけてきたくせに、何にも言わずに先行きやがって。どういうつもりだ?」

 斗歩はちょっと頬を指で掻くと、視線逸らした。

「もういいんだ。気にしないでくれ」

「気になるに決まってんだろ。勝手に一人で終わらせんじゃねぇ」

 返した時、オレの頭にはジャージ女の言葉が浮かんでた。

『澤上斗歩は高橋智也のことが好きです!』

 斗歩は読んでた本をもう一度開き、そこへ視線を落として言った。

「気にするほどのことじゃないんだって」

 しれっとした態度に腹が立ち、オレは斗歩の読んでる本へ思い切り平手を打ち付けた。バンッて鋭い音がし、その余韻が机の振動んなって手に伝わってきた。本へ向けたまんまの目ぇ丸くした斗歩に、言ってやる。

「オトモダチには聞かれたくねぇことなのか?」

 斗歩の眉間が寄り、怒りの気配が差した。オレの方向くと、

「お前、そうやって人煽んのやめろよ。昔っから全然変わんないよな」

 メガネとデブの空気が変な感じに揺らいだ。

「昔から?」

 メガネがこぼした疑問に、斗歩は応えた。さらっと、説明しやがった。

「オレと高橋、小学校一緒だったんだ。五、六年ン時だけだけど」

「それで妙にニアミス多いのか……」

 なるほどと納得したように言ったデブを、オレは怒り込めて睨めつけた。

「てめぇらには関係ねぇんだよ。雑魚が首突っ込むんじゃねぇ」

 脅すように言って、斗歩へ視線戻す。

「とにかく、てめぇは今から面貸せ。昨日ンこと、オトモダチに知られたかねぇだろ?」

『昨日ンこと』

 オレが最後の切り札、口にすっと、斗歩は目ぇ伏せた。

「分かった。でも、ちょっとだぞ。すぐ先生来ちま――」

「いいから来い」

 斗歩を遮って言い、オレは教室ドアへ歩を向けた。しっかりついてきた背後の気配に心臓速くなったけど、それ気取られねぇように、まっすぐ前だけ向いて足動かした。


 やって来たのは校舎裏だった。建物とフェンスに挟まれた狭いスペースには雑草が伸び放題。フェンスにまで絡みついてる。その向こうにはプールがあって、まだ使わねぇのに水が張ってあった。

「高橋」

 斗歩が口開いた。振り返りもせず、まだ歩き続けるオレに痺れ切らしたらしい。

「この辺でいいだろ。もう誰にも聞かれないよ」

「ああ」

 応えて、立ち止まる。けど、やっぱり後ろは見れねぇまんまだった。うつむいて、深呼吸して、体中に溢れてくる異様な緊張と興奮を抑えた。

「高橋……」

 また名前呼ばれる。困りきった感じが声に滲んでた。続けて、プールってさ、と謎の世間話が始まった。

「使わなくても水張ってないと、劣化しちまうんだって。生活用水にもなるから、冬場でも水入れっぱなしらしい」

「てめぇ、なんで今このタイミングで、その話した? ンなこと言いに来たわけじゃねぇだろ」

「いや、オレの方からは、本当にもう何にも話ないんだよ……」

 何だよそりゃ。舐めやがって。そう思いながら、オレは振り返った。拳握り込むと、爪が皮膚に食い込んで、痛かった。

「てめぇ、昨日のアレ、どう思った?」

 斗歩は、一瞬目ぇ見張ったが、すぐに瞼ゆるめて視線下げた。

「びっくり、した」

 そういうこと聞いてんじゃねぇ。

 さっきよりも声に力込めて、もう一度訊く。

「嫌だったか? キモチワリィって思ったか?」

「それはない」

 斗歩は、勢いよく顔を上げた。

「お前のこと、キモチワリィなんて、絶対思わないよ」

 核心に触れた気がした。拳に汗が滲んで、顔面が熱くなった。それはオレだけかって、オレにだけ、キスされようが何されようがキモチワリィって思わねぇのかって、訊こうとした。

 けど、それよりも、斗歩が尋ねてくる方が早かった。

「お前、アレ……小六ン時のアレ、見たから、ああいうことすんのか? オレにはああいうことして、いいと思ってんのか?」

「は?」

 意味がしっかり頭に入ってくるより前に、嫌悪感が寒気んなって背筋走って、オレは声上げてた。小六ン時の、アレ。唐突に出てきたその言葉に、鳥肌たった。

 続けて理解が追いついてくっと、カッと頭に血が上った。

「違ぇよ! なんでそうなんだよ!? てめぇ、オレのことどんなゲスだと思ってやがる!」

「じゃあ、なんでだよ?」

 斗歩の声がキツさを帯びた。

 なんでって、と小さな自分の声が聞こえる。そんなの、決まってる。オレがこいつに抱いてる感情は、ずっとずっと、同じだったんだから。小五ン時から……いや、初めて会った幼稚園ン頃から、ずっと胸の底であっためて、何度も何度も形確かめてきたモンなんだから。でも、心ン中ではくっきりしてたその思いは、表に出そうとすっと、必ずつっかえちまう。喉元でわだかまったそれを奥へ飲み込んで、くっそぉ、と思う。なんで分かんねぇんだよ。誰かにキスする理由なんて一つしかねぇだろ。少しは察しろよ。このクソ鈍感すかし野郎。

 言葉に窮したオレには、もう行動で示すしかなかった。斗歩の胸ぐら掴み上げるとフェンスへ押し付け、噛み付く勢いで斗歩の唇に唇押し当てる。前日と同じパターンだ。斗歩は不意を突かれて驚いたのか一瞬硬直したけど、すぐに力込めた手でオレの肩掴んで引き剥がそうとしてきた。これも前日と同じパターンだ。離れた唇をもう一度くっつけようとするオレと、顔に似合わな過ぎるゴリラ並の腕力で圧倒してくる斗歩。やっぱり前日のパターン……。

 悔しさと怒りが突き上げてきた。全く気持ちに気づいてもらえねぇ。力で完全に歯が立たねぇ。何一つ、思い通りにならねぇ。体中、むしゃくしゃした気持ちでパンパンになった。

 それで、オレはつい、拳振り上げてた。

 力込めて一発打ち込む。握りしめた手の甲には、柔らかい体温と、硬い骨の感触と、それから痺れが来た。見れば斗歩の顔は横を向いてる。頬を殴ったんだなと分かると――いっぺんに昔の映像が脳内再生された。ボロボロに傷ついて、ぐしゃぐしゃに泣いてる斗歩の幼い顔がよみがえってきた。ゾッと全身が粟立つ。

 けど、こっちを向いた斗歩の目には怒りがこもってて、少しほっとした。

「てめぇ、やっぱゲスいじゃねぇか。人のこと殴っといて笑ってんじゃねぇよ」

「あ?」

 反射的に声荒らげたと同時に、自分の口角が上がってたことに気がついた。斗歩のキレ顔見て、なんかほっとしたら、つい口元緩んじまったんだろう。続けて、斗歩の口調が普段と違うことも意識に留った。

「てめぇ、何キレてんだよ? つか、アレか? キレると人格変わるタイプか?」

 オレが言うと、つり上がってた眉が歪んで下がり、キレ顔が崩れかけた。けど、斗歩はすぐに、目に差してた怒りを戻す。まだ胸ぐら掴んだままだったオレの手ぇ振り払って、声尖らせた。

「やっぱ、お前、あのことで、オレにはこういうことしてもいいって、思ってんじゃねぇのか」

「違ぇよ!」

 思うより前に言葉が出てた。自分の声で、自分の言ったその意味が頭に馴染んで、腹の底から、はっきり理解した。

 違う。

 斗歩は目ぇ逸らした。

「そうとでも思わなきゃ、分かんねぇんだよ。なんでこんなことばっかしてくんのか」

「じゃあ、教えてやるよ」

 オレは大きく息吸って、まっすぐ斗歩を見た。

「まず、てめぇの思ってることの半分は正解だ。つまり――オレはゲスい」

 斗歩は目ぇ丸くした。

「アホみてぇな面してんじゃねぇ」

 オレは軽く深呼吸して気持ち整えっと、また斗歩を見つめた。

「オレはゲスい。ムカついた奴はすぐ殴るし、はっきり言やぁ、それを悪いとも思ってねぇ。けどな、それはお前に限った話じゃねぇし、何より『ムカついたから』だ」

 そこで、声に力込めた。

「そうだよ、クッソムカつくんだよ、てめぇは。このオレをモブ扱いしやがって。ちゃんとオレの方向け。ちゃんとオレを見ろ」

 言葉止めて、斗歩の顔へ意識移す。さっきまでのびっくり顔へ、さらに困惑の気配が加わってた。

「よく分かんないけど、つまり、オレのこと、嫌いなんだな?」

「なんでそうなる!?」

 思わず、叫んじまった。

「なんで嫌いな奴にキスすんだよ! どんなやべぇ趣味だ!? オレのこと変態とでも思ってんのか!?」

 直接的な言葉は使ってねぇ。使ってねぇが、キスして「オレの方見ろ」つったら、意味一つしかなくねぇか? なんで気づかねぇんだよ。鈍感にも程があんだろ。

 頭ん中、またジャージ女の言葉が過ぎる。

『澤上斗歩は高橋智也のことが好きです!』

 ンなわけねぇって自分に言い聞かせつつ、どっかで信じちまってたのかもしんねぇ。期待しちまってたのかもしんねぇ。いや、多分、それ以前の、ポッキーゲームん時、オレとキスしかけた斗歩が満更じゃなさそうだったって聞いただけで、気づかねぇとこで浮かれちまってたんだ。でも、こんだけ言っても何にも伝わんねぇんじゃ、脈アリなんてわけねぇ。オレはただ、一人で勘違いして二度も無理やりキスしたカス野郎だ。

 けど、これだけは、ちゃんと伝えてやんねぇと。

 言葉に困ったみてぇに、首の後ろ触って顔伏せる斗歩へ目ぇ向けた。吸って吐いてを繰り返し、心の波を鎮める。

「とにかくな、昔、てめぇの何を見たかなんて、関係ねぇ。オレは、アレ見て、てめぇのこと軽く見たりはしねぇ。つかオレじゃなくても、ンなこた思わねぇ。アレはそんなもんじゃねぇ。いつまでもウジウジ気にするこたぁねぇんだよ、クソカス」

 オレが言葉を続けるうちに、斗歩の目に映った驚きの気配が増し、そこへ光が差した。その表情は『半分戦隊ハーフマン』の話をしてやった、ガキの頃みてぇだった。

「お前、口悪いの、直した方がいいぞ」

 ああ?? って凄んで斗歩を見た。人がせっかく、と思って。でも視線の先の斗歩が笑ってて、用意してたその先の暴言は全部引っ込んじまった。高校に上がってから一度も見たことねぇ感じの、口の端に漂うだけじゃない、頬が上がるくらいの、ちゃんとした笑顔だった。

「せっかく優しいこと言ってくれてんのに、台無しだ」

 一つ一つの言葉を噛み締めるように斗歩は言い、それから息ついて少し口調速める。

「なぁ、多分、先生もう来ちまってるよな。どうする?」

「サボるに決まってんだろ」

 オレはそう言い、校庭へ向かって歩きだした。

「行くぞ」

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