第6話 走って、走って、走って、走った
走った。走って、走って、走って、走った。タラタラ歩いてる野郎の背ぇ追い越し、すれ違った女子の肩掠め、まっすぐ走った。
そうして廊下の突き当たりまで来ると、そこにある教室へ駆け込んだ。
黒いカーテン全部閉められたその部屋は、昼でも夜みてぇに薄暗い。カーテンの隙間から漏れ入る鋭い光だけが、まだ明るい時間だって主張してた。
「高橋、手ぇ……」
斗歩に言われて、やっとオレは繋ぎっぱなしだった手に気がついた。あ、って間抜けな声が出たのと、投げ捨てるくらいの勢いで斗歩の手払ったのは同時だった。何か言おうとしたけど、言葉が何もなくて、オレはうつむいてズボンのポケットに手ぇ突っ込んだ。繋いでた方の手を。斗歩の様子が気になったが、バツが悪くて顔見れなかった。
妙な間ぁ置いて、斗歩が重そうに口開く。
「お前、なんでこんなことすんだよ?」
「ああ?」
喧嘩腰の声出して顔上げれば、斗歩は眉をこれでもかってくらい下げ、でもテラテラした目には怒りみてぇなモンを浮かべてオレを見てた。
「やめろよ、こういうの。思い出しちまうだろ」
はっと、息が詰まった。
ポケットにしまった手に、熱くて湿った、別の手の温度がよみがえってくる。さっきの斗歩の、肉薄くてゴツゴツ骨ばったデカい手じゃない。まだ細くて柔らかくて、そんでガタガタ震える子どもの手だ。斗歩が転校しちまってからの四年間、ずっとずっと手のひらにしまってきた感触だ。
脳裏には風切って走った、あの日の景色が戻ってきた。目の前にあったものが一瞬で後ろへ行く、地面を蹴る度に体がぐんぐん進む、一人で走ってるのと変わらねぇくらい軽い感覚なのに、確かに握った手にはもう一人の温度があった、あの日の景色が。
オレは拳を握り込み、また斗歩から目ぇ背けた。
「てめぇ、覚えてやがんじゃねぇか」
「何のことだよ?」
元々低い斗歩の声は深まり、さらに重々しくなってた。怒ってやがんのは、別にいい。そんなこと、オレは構いやしねぇ。けど、斗歩の声には、怒りとは別の不穏さがあるような気がして、ゾッと首筋が寒くなった。ついさっき感じた昔の――あん時の感覚の名残りが全身へ広がった。
「思い出すって、アレのことだろ? あん時の。覚えてやがんのに、何しれっとしてんだよ」
「昔のことなんて、今は関係ないだろ」
斗歩は一度言葉を止めた。それから深くため息つくと、さらにはっきりした口調で続ける。
「お前には、感謝してる。オレを助けてくれたのは、お前だけだったから。でも、あの時のことは気にしないでいたいんだ。それに――都合いいこと言っちまうけど、お前にも、気にしないでほしい。オレを変な目で見ずに、普通の友だちでいてほしい」
『普通の友だち』ってフレーズが、他の色んなモンすっ飛ばして直に胸へ来た。
普通の友だちでいたい? 普通の友だちって、何だよ? やっぱ、こいつはオレのこと、他の奴らと同じ有象無象としか思ってないってことじゃねぇか。
オレは顔上げて正面から斗歩を睨みつけっと、イノシシみてぇな勢いで詰め寄り、胸ぐら掴み、壁に押付けた。ぃってぇ、と漏らした斗歩の口へ自分の唇重ねて塞ぐ。斗歩の体は硬直したけど、それはほんの一瞬のことで、すぐ肩に手ぇかけられ、ぐっと押し返された。唇と唇が離れる。斗歩は幼稚園児のガキみてぇに目ぇまん丸くしてた。薄く開いた口からは息ばっか出て、言葉は何もなかった。
オレはめいっぱいの力で、斗歩の胸ぐら掴んだままの手を引き寄せようとした。が、オレの肩掴んだ斗歩の手には信じらんねぇくらいの力がこもってて、腕一本分のスペースは全く縮まらない。なんでこんなバカ力なんだよ、顔に似合わねぇゴリラ野郎が。
負けん気に火ぃついて、オレは腹ん底から気合い入れた。腕引き寄せんじゃなく、今度は体全体で迫ろうとするも、斗歩の突っ張った腕は全ッ然折れねぇ。食いしばった歯の隙間から、グッと声が漏れた。力で負けそうなのが悔しくて、目ぇひん剥いて睨みつければ、斗歩の眉間にも物凄ぇ険がこもってた。瞳の奥では、もっと強ぇ怒りみてぇなモンがギラついてて、目にした途端、ちょっと怯んだ。力が抜けたと同時に、体が押しのけられ、ケツに衝撃があった。気づいたら、オレは床に尻ついてた。
視線上げると、斗歩の瞳と目が合った。さっきの怒りはなりを潜め、今はただ眉も目尻も下がって悲しそうに見えた。
罪悪感が突き上げてきた。けど、咄嗟に口から出たのは、気持ちとは正反対の言葉だった。
「何しやがる」
「どう考えても、こっちのセリフだ」
斗歩は大きく肩で息つくと、くるりと背ぇ向けた。
「突き飛ばしたのは、悪かった。でも、お前もこういうの、やめてくれ。オレも暴力で返すしか、なくなっちまう」
そう残してゆっくり歩きだした姿が、オレの目には滲んで見えた。
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