第2話 自信の塔が崩れ去った日

 幼稚園に通ってた頃、オレは家に帰ると真っ先に、近所の公園へ向かってた。しょってた鞄も肩に提げてた水筒もその辺に放り出し、制服のブレザーと帽子脱ぎ捨てて、一人で走ってった。ガキの足でも、全速力なら二分で着く距離だ。

 あっという間に辿り着くと、そこでオレは「シハイシャ」になった。要は、ただのガキ大将だったわけだが、当時のオレは「コウエンのシハイシャ」だって名乗ってた。今から思えば、小っ恥ずかしい黒歴史だ。

 「シハイシャ」のつもりんなってたのは、幼稚園では何やってもオレが一番だったからだ。入園前から、補助輪外した自転車乗り回してたし、年少の頃には平仮名もカタカナも、スラスラ読めたしサラサラ書けた。年中から初めた縄跳びも上手くて、他のみんなが十回くらいで引っかかってたのを、オレは二百回続けて跳べた。足も学年で一番速くて、年長ん時の運動会のリレーでは、圧倒的な差をつけてゴールテープを切った。それで、先生も友だちも「トモヤくん、すごいな」「トモヤくん、かっこいい」ってオレを褒めまくってきて、自分でも「オレはすげぇんだ」って思うようんなった。その延長で、公園でも自分は一番すごいシハイシャだって、決め込んでた。小学生があんま来ねぇような小せぇ公園だったおかげで、オレのそういう自尊心は、へし折られることなく守られてた。

 見かけねぇチビが現れたのは、夏だった。蝉がジリジリ鳴いてて、暴力的に陽射しが強かったのを覚えてる。滑り台も鉄棒もフライパンみてぇに熱くなってて、その頃流行ってた――つーかオレが気に入ってみんなにやらせてた「遊具鬼ごっこ」もできそうになかった。「つまんねぇな」と、一人で膨れてた時に現れたそのチビ見て、閃いた。ちょっといじめて、遊んでやろうって。

「おい」

 オレが声かけると、チビは肩をビクっと跳ね上げてから、おそるおそるって感じでこっち見た。どことなく猫を思わせる顔には、絆創膏やらガーゼやらいくつも貼り付けてあって、ちょっとびっくりした。でも、幅広の大きなつり目ん中で不安げに瞳が揺れてるの見ると、からかってやりてぇなって意地の悪い気持ちも、また頭もたげてきた。

「ここではトモヤのキョカがないと、あそべないんだぞ。ガンメン、ボコボコのブサイクは、ぜったい入れてやんねぇ」

 チビの顔は、空へ雲が広がるみてぇに一気に歪んで、まさに土砂降り間際って感じになった。あ、こいつ泣くな、ってオレは思ったんだけど、チビはブルブルし始めた唇をギュッと噛み締めて、涙を飲み込んじまった。目は、はじめん時よりさらに不安げで――つーか、もう不安なんて通り越したくらい、赤くて濡れてて目尻下がってんのに、頑なにその縁から涙はこぼれなかった。そんな表情見たことなかった。他の誰も、そんな顔向けてきたことはなかった。オレはどうしたらいいか分かんなくて、でもとにかくその顔はやめさせたくて、思いつきでポケットに入れてたカードを突き出した。

「バカ。おまえ、なになきそうになってんだよ。だせぇな。これやるから、そんなかおすんな」

 え、と口から漏らしたチビの顔から、涙の気配が引いた。不思議そうに首傾げてカードを受け取り、そこへ視線向ける。するとパッと、宝物でも見つけたみてぇに目が輝いた。

「これ、くれるの? ぼくに?」

「お、おう……」

 声まで弾んでて、狼狽えた。確かに、泣きそうな顔やめさせたくて渡したのには違いなかったが、そんなに喜ぶとは思ってなかった。あれ、当時流行ってた戦隊ヒーローのキャラん中で、一番人気のねぇ奴のカードだったから。あのキャラのファンなのかな、変わった奴だなと思って「ハーフグリーン、好きなのか?」って訊いたら、チビはまた首を傾げた。

「これ、ハーフグリーンっていうの?」

「しらねぇのかよ!?」

 つい、声が高くなってた。だって、あの頃のオレにしてみたら、自分と同じくらいの子どもで「半分戦隊ハーフマン」を知らないって、ありえねぇことだったし、知りもしねぇもん貰ってあんな嬉しそうにすんのも、わけ分かんなかった。こいつ、もしかしたら何も知らねぇし何も分からねぇ本物のバカなのかなと思って、オレは急に、いろいろ教えてやらねぇとって気持ちに駆られた。

「いいか、これは『半分戦隊ハーフマン』ってテレビでやってるハナシに出てくるヒーローで、ハーフグリーンってヤツだ」

 オレは、拙ぇ言葉で、ガキが語るには細かくてめんどくせぇ説明を、それでも伝えようと頑張って話した。ちゃんと伝わったかは分からねぇけど、チビは澄んだ目をじっとオレに向けて、こくこく頷きながら聞いてた。その眼差しは真剣で、純粋で、何か希望でも見つけたみてぇに、だんだん、だんだん生き生きしてきた。オレの方も、なんだか得意な気分になって、ずいぶん長ぇこと喋っちまった。

 内容を掻い摘んで説明すっと、『半分戦隊ハーフマン』は神様に体の半分だけ望みを叶えてもらったヒーローたちだ。みんな、初めはコンプレックス抱えた落ちこぼれ。それが、流れ星が見えたり、初詣に行ったり、誕生日ケーキのロウソク吹き消したりした時に、願い事をする。『あいつの半分でいいから、強くなりたい』とか、『あいつの半分でいいから足速くなりたい』とか。そうすっと、神様が願いを叶えてくれて、変身して強くなったり足速くなったりする。でも、その神様はバカで『半分でいい』の意味を取り違えちまって、強くなったり足速くなったりすんのは、体の半分だけ。変身しても、右のパンチはめっちゃ強いのに、左はクソ弱え。左脚の一蹴りでグーンと前に進むのに、右脚は地面を捕え損ねたみてぇに役に立たねぇ。でも、そういうバランスの悪い力を上手くコントロールできるように、みんながそれぞれに頑張って成長しながら、街の平和を守るって話だ。

 ちなみに、オレがチビにやったカードのキャラ『ハーフグリーン』は、半分だけかっこいいヒーローだ。元はダセェ小太りのオタクなんだけど、変身すっと左半身だけ細マッチョになる。繰り返すが、左半身だけ細マッチョだ。全体で見たら、かなりやべぇ。よく子ども向け番組でやったなってレベルでやべぇ。こんなんが、怪人じゃなくヒーローとして出てきたら、毎週放送事故だ。左半身だけ細マッチョで右半身は小太りなら、全身小太りのがよっぽどマシだ。でも、チビはハーフグリーンのカードをすげぇ嬉しそうに見てて、どんな感性してんだって思った。自分で渡しといて、なんだが。

 すっかり晴れやかな表情んなったチビは、顔いっぱいに笑みを広げて「ありがとう」と言った。

「にちようびは、おとうさん、おきるのおそいから、おばあちゃんにみせてって、たのんでみる」

「おとうさん、見せてくれないのか?」

 オレがなんとなしに訊くと、チビの目に不安の色が戻ってきた。一瞬で、最初に見た表情んなってた。瞼伏せ、うん、っつったチビに、オレは何て声かけりゃいいか分かんなくなった。そんで、とりあえず走ろうと思った。この場面で走るって、どんな謎ムーブだって感じだが、自分が走ってすげぇとこ見せれば、目の前のチビはさっきの顔に戻ると思った。オレに「すごいなぁ」って眼差し向けて、その他の嫌なもんは全部忘れると思った。

「おい、トモヤとかけっこしろ」

「え?」

 チビは眉を下げたまま、目ぇ丸くした。オレは、ニッと笑ってやった。

「どうせ、おまえ、足もおそいんだろ? はやくはしるやりかた、おしえてやるよ」

「ほんと!」

 チビの表情から陰りが消えて、目に明るい色が差した。

「ぼく、はやくはしれるように、なりたい! おしえて!」

「まずは、どのくらいはしれるか、ためす。トモヤといっしょに、はしってみろ」

 オレが靴のつま先を地面に立てて線引き始めると、チビは「あのさ」って少し声張った。ン? と思って顔上げれば、少し困ったような、照れたような感じに笑うチビと目が合った。

「トモヤって、君の名前?」

「うん、高橋智也ってんだ」

「そっか」

 応えたチビの表情は、眉と眉の間が広くなるくらい柔らかくなってた。

「ぼく、トモヤトアっていうんだ。トモヤってきくと、なんか、じぶんのことみたいでドキドキしちゃった」

 ほっと安心したような、こわばり全部解けたような丸い頬に、なんつーか、ちょっと見とれちまった。妙な間があいて、自分でまじまじ見入ってたことに気がつくと、顔面へ一挙に熱が駆け上ってきた。オレは咄嗟に顔背けて、

「へんななまえだな! 『トア』なんて、きいたことねぇし、うえのなまえも、したのなまえも『と』からはじまってて、なんかキモチワリィ」

「そうかな……」

 聞こえた声には不安が滲んでた。いちいちそんなことで、へこむんじゃねぇよ。

「なまえは、もういい。とにかく、はしるぞ。せんひいたとこに立って『よーい』のポーズ取れ」

「よーいのポーズ?」

 尋ねてきたチビの頭上で、クエスチョンマークが飛び跳ねてるような気がした。ちょっと吹き出してから、オレは説明してやった。

「『よーい、ドン!』のときの『よーい』だよ。はしるかまえ、すんだろ。そんで、あの木がゴールな。どっちがはやいか、きょうそうだぞ」

「わかった!」

 チビは嬉しそうにそう言って、スタートの姿勢とった。

 てっきり、雑魚いポーズんなるんだと思ってた。前に出した足と同じ方の手ぇ前に構えるとか、背中すげぇ丸めてるとか。でも、チビ――斗歩の、あの構えは完璧だった。背中から脚にかけてのラインはまっすぐで、前の足に体重ものせてて、ガキの目にも分かるほど綺麗なフォームだった。

 焦った。

 ガタガタのフォーム直してやるつもりだったのに、文句のつけ所のねぇフォーム見せられて、急に「負けらんねぇ」って気持ちがせり上がってきた。オレは斗歩と並んでスタートダッシュのフォームをとった。

「ドン、ではしるからな」

「うん」

 斗歩は含みのない、明るい声で言った。

 握った拳に、汗が滲んできた。負けねぇぞ。

「ドン!」

 オレは叫んで、力一杯、地面を蹴った。最初に前へ出たのは、オレだった。よし、やった。そう思ったが、今から思い返せば、あれはオレがオレのタイミングで「ドン!」つって飛び出しただけで、スタートが斗歩より上手かったわけじゃねぇ。けど、あの時のオレの頭には、そんなこと過ぎりもしなかった。勝てると思った。このまま走れば、絶対に追いつかれたりしねぇって、確信してた。

 でも、あっという間に背中へ斗歩の気配が迫ってきて、気がついたら、あいつは前にいた。ゴールに見立てた木に辿り着いた斗歩の背中が、オレの目にはすごく遠くに、滲んで見えた。

 続けてゴールしたオレに、斗歩は屈託なく笑って近づいてきた。

「ねぇ、ぼくどうだった? もっと、あしはやく、なれる?」

 オレは肩で息しながら、両手を膝につき、顔伏せた。もっと速くって、てめぇめちゃくちゃ足速ぇじゃねぇか。自分より足遅ぇ奴に訊いてどうすんだよ? バカにしてんのか?

 でも顔上げれば、斗歩は怯んだように、困ったように、眉を下げてた。

「どうしたの? どこかイタイの?」

 オロオロする斗歩の姿が、目に溜まった涙で曇った。ボロッと目の縁から熱さが溢れて、オレは慌ててゴシゴシ顔拭った。

「と、トモヤは……今日、チョーシわるかっただけだからな! ホントは、おまえなんかより、はやいんだからな!」

 斗歩は、さらに眉を八の字にして、わかってるよ、とかすれ声を出した。

「ぼく、あしおそいもん。おとうさんに、いつもおこられる。だから、あし、はやくなりたいんだ」

 耳の底に貼り付いたみてぇに、斗歩の言葉はリフレインした。足が遅い? こんな速く走れる奴が、足遅いせいで怒られる? 積み上げてきた自信の塔が、いきなり足元から崩れてった。そん時のオレはガキで、あまりにもガキで、目の前のチビの言ってることのおかしさにまで、そのおかしさの背景にあることまで、全然思いが及ばなかった。ただ、ただ、ひたすら、絶望に近いくらい、悔しかった。

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