第4話 チェスの対戦を所望されるので

 フェリクスは、休暇のたびに私のもとへやってきて、チェスを所望しました。


「あなたに勝てるよう、戦術を練ってきたのです。早くやりましょう!」


 いつもそう言って、こてんぱんに負けるのですが、それでもフェリクスは満足げです。


「今回は惜しかったな……一度包囲を破られれば、あなたの駒が雪崩れ込んでくる。かといって速攻しても、あなたの守備は固すぎて駒を取られすぎてしまう」

「フェリクスは素直すぎるのですわ。敵に意図を探らせないための戦術なのですから、いくつも組み合わせて、方針をちゃんと決めないと」

「いやあ、勉強になります。もうあなたとチェスを打ち始めてから、騎兵隊の誰よりも上手くなりました。上官ともチェスをして、負けなしになるほどに」

「それはよかったわ。でも、私には一度も勝てていませんけれど」

「ははは、これは手厳しい。ですが、いずれは勝ちますよ」

「ええ、ぜひ挑んできてくださいませ」


 談笑は、とても男女の語るような内容ではないし、おそらくフェリクスは——私のことを恋人ではなく、チェスの相手としか見ていないでしょう。


 私は、言い出せませんでした。あまりにも、フェリクスが楽しげにチェスを打ちに来るものですから、邪魔をしたくなかったのです。騎兵隊の仕事は過酷で、合間を縫って彼らはチェスを楽しんでいます。酒やタバコなど、馬に悪影響のある他の娯楽は許されていないからです。だから、チェスが上手くなることはとても嬉しいのでしょう。


 でも、私はこれはこれで楽しいと思わずにはいられません。


 好きなことをして、でしゃばりと言われない。才能の赴くままに能力を発揮しても、相手は腐らずもっと戦おうと言ってくれる。


 それは、私にとってはとても得難い、貴重な相手なのです。


「エルザ嬢、そういえばなのですが」

「はい?」

「最近、バルリング伯爵という人物が騎兵隊の宿舎まで来て、私に妙なことを言ってくるのです」


 今更、その名前を聞くとは思ってもみなかったので、私は言葉に詰まりました。


 なぜバルリング伯爵がフェリクスに接触しようとしているのでしょう。フェリクスは私のことに気付かず、話を続けます。


「何でも、あなたのことを鼻持ちならない女だとか、父親の威光を利用して男を選んでいるだとか、散々なことを言ってきたので」

「……それを」

「ですので、殴っておきました」


 は?


 私は目を白黒させました。一瞬、フェリクスが何を言ったか、分からなかったからです。


「女性を悪く言うなど、貴族の風上にも置けません。それに事実とは思えませんでしたし、あなたを貶める意図が見え透いていました。なので、殴ってお引き取りを願ったのです。場所が騎兵隊の宿舎ですからね、部下たちが率先して外へ放り出してくれましたよ」


 はっはっは、とフェリクスは笑います。


 思わず、私も釣られて、笑ってしまいました。


 ざまあみろです、バルリング伯爵。








 突然ですが、ヴァルツ帝国は東方にオクトーレ公国連合という敵国を抱えています。


 ここ数年、けっこうな睨み合いが続いていて、いつ戦争の発端となる小競り合いが起きても不思議ではありません。しかし、私の父ドミニク・イェーリスは名の知れた軍略家であり、皇帝の信を得てその緊張状態を上手く操作していました。


 つまりは、私の父の胸先三寸でヴァルツ帝国もオクトーレ公国連合もどうとでもできる、ということがよく知られている事実なのですが——もちろん、軍事に疎い方々には、それは理解できることではありません。軍人でも、将校くらいしか分からないでしょう。


 そしてその話を私にするくらい、フェリクスは私を女性と思っていない節があります。


「帝国東方地域は現在、表面上は穏やかなものですが、その実いつ開戦してもおかしくはない状態なのです。その付近を領土とする貴族たちはそれがよく分かっていない。分かっている貴族はいても、他の貴族にまで危機感を共有させられないのです」


 フェリクスは相変わらず黒の駒を動かしながら、私へ語ります。


「先日のバルリング伯爵。あの方も危機感を持っていない貴族の一人です。オクトーレ公国連合の公の一人とバルリンク伯爵の姉が姻戚関係を結んでいるから、自分の領土は守られる、と勘違いされているのでしょう。馬鹿な話です。オクトーレ公国連合からしてみれば、バルリング伯爵など路傍の石程度の存在です。馬の侵入を防ぐ柵にもならない。手の内が知れているのですから、オクトーレ公国連合もあっさりと踏み潰すでしょうね」


 フェリクスはポーンを慎重に一マス動かします。最初の頃はただ突撃するかのように二マス動かしてばかりだったので、少しはマシになってきています。


「はあ、あのお方も、もっと賢い方だとよかったのですけれど」

「そう思う気持ちはよく分かります。あなたとの婚約だって、皇帝陛下がバルリンク伯爵の領土を守るための策の一環だったというのに」

「ええ。東方に父の——イェーリス将軍の娘がいるとなれば、そうそうに手出しはできません。何が起こるかなど、火を見るよりも明らか。父の怒りを買えば、たとえオクトーレ公国連合が望まずとも、徹底的に全面戦争をせざるを得なくなる」

「あなたが抑止力として赴くはずだったのに、それをあのバルリング伯爵は……何とも、愚かだ」


 私の白のクイーンの前に、黒のナイトが飛び出してきました。その後方には、もう一つの黒のナイトがいます。


 私はキャスリングののち、一気に攻め入ります。すでにビショップもルークも取られているフェリクスは、慌てて戦線を引き下げようとしますが、時すでに遅し。


「……まただ。うーん、あなたの機を見る目は、もはや才能と言っていいでしょうね」

「まだまだですわ。父とは互角ですもの」

「軍でも一、二を争うチェスの名手と互角ですか。これはもう、相手をしていただいて光栄と言うほかありませんね!」


 フェリクスは嬉しそうに、顔を綻ばせます。


 何だか、言ってしまっていいものか、と私はここ数日悩んでいることが喉まで出かかっていて、迷います。


 と、その前に。


「チェックメイト」

「……まいりました」


 ちゃんと、盤面を終わらせておきました。


 そして、私はやっと、悩みを口にします。


「フェリクス、私は……ひょっとすると、最初、あなたとお見合いをする予定、だったと思うのですけれど」


 フェリクスは「えっ」という、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしました。


 あれ、何だかおかしいぞ。


 私はさらに問います。


「だって、私はバルリング伯爵に婚約を破棄されて、それでシュヴァルツェンブルク侯爵のご子息であるあなたと見合いをする方向で話を進めていた、はずなのですけれど」

「……えっと、そうでしたっけ……あれ?」


 どうやら、フェリクスは本気で見合いの話を忘れているようです。チェスが楽しすぎたせいでしょうか。ちょっと私も見合いをそっちのけにしてやりすぎました、初対面からもう一ヶ月は経っています。


「もしかして、私とは、見合いはお嫌でしょうか?」

「いえいえいえ! そんなことは決して! ただ、その、私でいいのですか? 私はまだただの騎兵隊隊長で、大して出世もしていません。そのうち昇進する予定ではありますが、戦争も近く軍人と付き合いをしたがる女性というのは、はっきり言って」

「別に私は気にしませんわ。だって、父が父ですから」

「……そうですね。忘れていました、ご無礼を」


 私は軍人の娘です。それも父は一兵卒から身を起こし、誰よりも軍略に優れた才能を開花させて、数々の戦場を勝利に導いてきた英雄のような存在です。その無事を祈り、家で待つことの意味を、私は十分に理解しています。


 フェリクスは恥ずかしそうに頭を掻いていました。ちょっと忘れっぽいというか、抜けているところがあるようです。それもまた愛嬌だ、と私は思うことにしました。


 フェリクスは盤面上のチェスの駒を並べ直しています。


「あなたと結婚を前提に付き合う、という方向で行くのか、それとも婚約するのか……それに関しては、決める時間をいただけませんか」

「かまいませんけれど、どのくらい待てばよろしいのでしょう?」

「そうですね、一週間、いや、二週間くらいでしょうか。今、情勢が少々怪しいもので、もしかすると私も戦地へ出立しなければならないかもしれません」


 盤上のチェスの駒は、白黒の陣地に綺麗に並びました。フェリクスは話しながら、何かを誤魔化しながら、自分の手番だとばかりにポーンを動かします。


「その前に、必ず決めます。もう一度ここへ来て、きちんとあなたへ答えを聞かせます。それまで、待っていてください」


 私は、くすりと笑いました。


「いいですよ。じゃあそれまで、チェスの対局はお預けですね」


 それを聞くなり、フェリクスは複雑そうな顔をしていました。


 二週間後。それまで、私はチェスの勉強をしていましょう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る