黒犬堂古書店の店主に恋をしてはいけない

ろくまる

黒犬堂古書店の店主に恋をしてはいけない

 駅前商店街を抜けた坂の上、右に曲がって古びた「古書」の看板が掲げられた裏路地。そこに入って行くと、木造で古いとしか言いようのない一軒家が立っている。

 そこの一階部分は古書店となっており春夏秋冬関係なく少し涼しくて白熱電球の灯りがあっても薄暗い、辛気臭いと言われても仕方ない店。それが「黒犬堂古書店」だ。

 しかし棚には売り物である古書が埃をかぶる事なくきっちりと並んでおり、店主が毎朝掃除していると言うだけに清潔感のある不思議な内装をしている。

 そんな時代遅れ感のある本屋には、ある噂があった。


『黒犬堂古書店の店主に恋をしてはいけない』


 店主は生真面目な女性であり、容姿は学生と見間違うほど幼なげであるが「垢抜けていない」が冠につくくらい地味な印象を持たせる。傍らには看板の名に合わせて迎えたのか、毛並みの良い黒い大きな犬がまるで主人を守るように控えている。

 近所の人にも表情は大きく変わらないものの適切に会話なり交流をするし、店を閉じている日に犬と散歩をしている姿も目撃されている、至って普通の女性だ。

 何故、恋をしてはいけないのか。



「──なんでも、旦那さんがいるらしい。近所のおばさん曰く、買い物から帰った店主が家の中の誰かと話している声を聞いたって。その時は犬に語りかけるのかと思ってたんだけど、よく耳をすませると男の声がしたらしい」

「じゃあ、あの二階に旦那さんが?」


 そうなんじゃねぇの、と肩をすくめる親友に青年は煮え切らねぇなぁと唇を尖らせた。しかしそうなると噂の真偽を確かめたくなってしまうのが、若気の至りにもなる無謀で勇猛な好奇心だろう。

 青年達は早速「黒犬堂古書店」へ足を運ぶ。時刻はもう子供に帰宅を促す鐘が鳴った後で、古書店はまだ白熱電球を灯していなかった。


「いらっしゃいませ、あと一時間で閉店になりますがよろしいですか?」


 穏やかに小さく微笑んで、店主は青年達を迎えた。

 サイドにひとつに束ねられた黒髪、金のチェーンが揺らめく丸いレンズの眼鏡、まだ肌寒い季節に合わせてブラウスの上から厚手のカーディガンを羽織った女性。佇む場所が変われば「映える」だろうな、と青年は思っていた。

 青年の親友は、少し、目線が下を向いてしまった。彼女の持つ羽ぼうきではなく、ブラウスにスキニーパンツのそのスタイルに、である。厚手のカーディガンでも隠しきれなかったむっちりとしていて然るところはきゅっと締まった、雑誌の表紙を飾りそうな体。違う意味ではあるがこちらも「映えそう」と考えていたのは言うまでもない。

 ふたりはついでと考えていた大学受験の参考書を探してて、と店主に尋ねる。


「でしたらこちらです、年代別か大学順かはまだ細かく決まっていませんから探すのは一苦労かと思いますが」

「なんとか、探してみます」


 青年がそう言うと、閉店間際にはお声掛けします、と店主は微笑んだ。

 すかさず小声で親友は言った。


「店主ってあんな、かわいい人だっけ?」


 涼やかな猫目ではあるが、丸眼鏡や薄く微笑む仕草で甘く柔らかな印象を締めてくれるアクセントくらいになっている。

 あの瞳に熱がともったら、と考えるだけで青年の心臓が高鳴る気がした。

 そんな時だった。


「──もうすぐ、閉店の時刻だが」


 くるりと声がした方をふたりが向くと、天井に頭が付くのではないかとすら考えてしまいそうなほど背が高く、肩幅や服の下からでも分かるごつりとした体格の、男がいた。

 丁度外から店に入る光を背にしているので顔は見えないが、ぎらりとその瞳は鋭くふたりを貫いているような、そんな圧を感じる。

 青年は息が詰まったような気がして、ぁ、としか声が出なかった。彼の親友もまた細かく震えている。


「あ、ハルヒコさん。こちらにいらしてたんですね」


 そんな店主の声がして、ぱっと空気が軽くなった。男の声がして戻ってきたのだろう、と青年が店主の顔を見て、思わず呆気に取られてしまった。

 店主が、先程までの小さな野花のような微笑みではなく、大きいが清らかで可憐な百合のように美しく笑っていたから。


「アカネ、彼らは?」

「ギリギリまで参考書を探させてあげようかと。受験も大詰めの時期ですし」


 なるほど、と言った男の声は青年達に向けられているのだと分かるほど冷たい。店主には優しくあたたかい声色だからなおの事。


「あ、あの、旦那さん、ですか」


 青年の親友は、好奇心が勝ったのかそんな言葉を口走っていた。この状況かつそんな震えた様子では何か勘違いされそうで怖いと青年が思っていると、店主は頬を少し赤らめた。


「えぇ、と。内縁、ですが」


 それは恋愛をした事がない青年達ですら、恋をする乙女、という言葉しか似合わないと感じるような顔だった。



+ + +



『アカネ、次に彼らが来た時は入れなくていいからな』

「お客様ですよ? それに危なくなったらハルヒコさんが助けてくださるじゃないですか」


 本が並ぶだけの静かな空間。結っていた髪をほどいた店主、アカネと彼女の膝にアゴを乗せる黒犬が大人しく頭を撫でられている。

 本は思想・物語・解明……様々な知識や享楽が詰まった存在。そんな本に含まれる読み手や作り手の思いを集めて、己の力の糧とする神のような存在が昔から語り継がれていた。

 もうそれを覚えているのは、本人とその嫁だけだが。


「私は、ハルヒコさんに出会ってからこの世界で一番の幸せ者になりました。ハルヒコさんのお嫁さんとして、こうして働けるのが幸せなんですよ?」

『そう言われると弱ってしまうな……じゃあ心配かけさせられたお詫びに、今夜も美味しいご飯期待してるよ』

「お任せください、今日はお昼から最近のお料理の本を読み込んでいたんです。今我が家にある食材でお作りしますからね」

『楽しみにしてる。アカネの作るご飯は思いがあったかくて好きだから』

「ふふ、腕によりをかけるだけじゃありませんから」


 愛する黒犬ハルヒコの頭を撫でながら、アカネはそう笑っていた。


 ──だから、黒犬堂古書店の店主に恋をしてはいけない。


 愛する嫁を守る夫に、その手を噛みちぎられたくないのなら。

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