第6話 変わりつつある日常とひとつまみの勇気

 今日の体は女ということを確認し、女子用制服を来て、いつものように眠気まなこを擦りながら家を出た。


 俺の心情とは裏腹に、雲ひとつない空が広がっている。


 やはり現代文の授業での物語などでよくある天気での感情表現など、現実ではありえないのだ。


 まあ、そんなことは日常茶飯事なのだが。


 いつもと違うのは、登校ついでに例の公園を敢えて避けたことだ。


 正直言って、陽とはあれくらいの言い合いをしたことは何度もある。


 だから気まずくなったということは断じてない。これは本心だ。


 俺が避ける理由は、これ以上彼の邪魔をしたくないからである。


 最近は部活が忙しいと言っていたし、何しろこれ以上俺のしょうもない事情で迷惑をかけるわけにはいかない。


 ……とでもきっぱり言えればいいのだが、それは半分だけ本当だ。


 もう半分は、自分自身のため。このまま陽に頼ってばかりでは仮に女性と付き合えたとしても、それは陽の力でしかない。


 その彼女と過ごしている間に俺の陰キャっぷりが存分に発揮されるのは時間の問題だろう。


 そうなれば、今より遥かに惨めな気持ちになるに違いない。


 つまりは、俺が自力でやるしかないのだ。


 一日経ったからこそ自分の考えと状況を冷静に分析できた感じだな。


 そんなことを考えている間に、気づけば学校につき無意識に自分の席に座る。すぐに朝礼のチャイムが鳴った。


 ぼんやりとしている間に担任代理の女教師の連絡を聞き流してしまっていたが、どうせ大したものはないだろう。


 山積みの課題と、これから授業というのも相まって、一気に現実逃避の眠気が襲ってくる。


 陰キャというのは学校で手持ち無沙汰になると、机に突っ伏して寝る癖がある。そしてそれを極めると、何かしらによって無気力になった途端、条件反射的に眠くなってしまうのだ。


 俺ってばキングオブ陰。


「……くん! ……みのるくん! 起きなさい!」


「んあ?」


 今、俺の名前を呼ぶ声がしたような……? 気のせいか? そうだ、きっと気のせいだ。もう一度寝よう。


 一瞬顔をあげようとしたが、俺の首がどうにも頭を持ち上げられないようだ。ならしょうがない。やはりもう一度寝……。


「横枕みのる!!!」


「ハイッッッッッッッッッッ!!!!」


 座っていた椅子と共にさっきまでの眠気を吹き飛ばし、俺の体が飛び跳ねる。

 俺を呼んだのは朝礼をやっていた担任代理の女教師だ。


 彼女は顔に青筋を立てており、同時にクラス中の全員の視線が俺に向けられていた。


 しまった。俺としたことが。教師の目を盗んで仮眠も取れんとは。これではキングオブ陰失格ではないか! ……とかなんとか言ってる場合じゃなさそうだな。


「いつまで寝てるの? 朝礼の時からずっとだよねぇ……?」


「すみません」


 まさかその時からバレていたとは。言い訳のしようもない。ていうかもう朝礼終わったのかよ。


 ということは四限目の、この人の持つ教科で起こされたわけか。


 教師の目を盗んで時計を一瞥し、時間を確認する。


 ほう。あと数分で昼休みか。飯だ飯ーー!


「寝るって事はさっき解いたこの問題、わかるんでしょうね?」


 彼女は光の反射で天使の輪を浮かべたロングヘアを揺らしながら、掌底で白く刻まれた数式や日本語らしからぬ日本語の書かれた黒板を叩いてそう言った。


「はいぃ。えーっと。あーっと。いーっと。うーっと」


 なんだあ? なんたらをなんたらと仮定してどーのこーのに代入して……?


「えー、さっぱりです」


 言うと、俺は教科書を置いてからテヘヘと言わんばかりに苦笑いする。


 彼女は眉間に指を立て、ため息をついた。


「全く……。そんなことだろうと思いました。どうせ宿題もやってきていないだろうし、放課後までにノートを提出すること! いい?」


「まじすか。だりい」


 わかりました。すぐ出しに行きます。


あ。思ってたことと言いたいことが逆だ。テヘヘ。


「みのるくん……? 今なんか言った……???」


 彼女の顔こそ笑みを浮かべているが、こめかみ近くの血管がブチ切れそうになっていた。


「なんでもないでしゅ!」


 ビビりまくったせいで噛んでしまった。それも大声で。


 瞬間、クラス中が笑いに包まれる。


 超恥ずかしい。僕泣きそう。静寂に包まれるよりはいいけどさあ……。


 そして俺の少し後ろからくすっと、聞き覚えのある声があった。


 小鳥遊だ。死にたい。


 そんなこんなでチャイムが鳴って号令がかかり、昼休みが始まった。


 さっきまでは今日のママの弁当は何かなン? と思っていたが、恥をかいたせいで台無しだ。よし、眠気もきたし、もう寝よう。一切ペンを持っていないのでノートは真っ白なのだが、板書なんか知るか。


 ヤケクソで暴挙に出ようとしたその時、横からちょんちょんと突かれる。


 彼女は肩を震わせながらノートを手に抱えていた。


「さっきはすごい可愛かったよ。プププ……。なんでもないでしゅ! って……ッッッッッ」


 めっちゃツボってますやん。しかもプププて。リアルで普通に口に出す人初めて見たわ。それに可愛いなんてうるさいやい! 俺だって姿こそ女だが中身は男なんだぞ! でも悪い気はしないな……。


「小鳥遊? それで何の用なの? 笑いに来たの?」


 新しい扉が開きそうな心中をひとまず置いておき、ジト目で俺が言うと小鳥遊は、不意に要件を思い出したようだ。


「そうそう、さっき先生にノート提出って言われてたでしょ? 後半の板書は黒板を写せばいいけど、前半はもう消されちゃってるから」


 言いながら、小鳥遊は抱えていたノートを俺に差し出した。


「はい、ノート見せてやる〜! ありがたく思え〜!」


 小鳥遊は満面の笑みを浮かべ、冗談混じりな口調で言った。


「お、ありがとう」


 恥じらいと感謝の気持ちで訳が分からなくなりそうだったが、なんとか感謝の言葉は出せた。


 彼女のノートは特に飾り気のない大学ノートだが、表紙に『数学』とかわいい丸文字で書いてある。


 開くと、癖のある文字な割に見やすく、適度にスペースもあり全体的にも見やすい。小鳥遊はきっと片付けもうまい女に違いない。


 そんなことを考えながら、特にノートの内容を考慮せずに淡々と写す。


 その様は、書くというより描くという方が正しいかもしれない。極めて模写に近いものを感じる。


 見開きページ写し終えたところで、まだ小鳥遊が傍にいることに気づいた。


 彼女は俺の前の席を借りて、背もたれに両肘を立て頬杖ならぬ両頬杖を突いている。


 不意に目が合うとにひひっといった感じで笑みを浮かべた。


「なあ、なんでずっといるんだ?」


 小鳥遊と話すチャンスだと思ったが、何を話せばいいかわからなかったので正直に思ったことを聞いてみた。


 小鳥遊は空を仰ぎ少し考えて言う。


「えー? なんとなく?」


 俺の疑問に、きょとんとする小鳥遊。理由なんている? と言った感じだ。


「なんだそりゃ」


 俺はははっと軽く笑った。


 あんまりマジマジと見られると手が震えて書きづらいんすけど。まあ美人な女の子の近くにいられるっていうのはすげえ良いが。


 少しばかり沈黙が続いたが、残りの板書を書き終えるまで小鳥遊はずっと居た。


 俺は小鳥遊のノートを優しく閉じ、あざす、と頭を下げて彼女に返した。


「いえいえ」


 小鳥遊は丁寧に返事してくれた。


 これでとりあえずやるべきノルマは達成したわけだが……。俺のやりたいノルマはまだだ。模写している時もずっとやりたいと思っていたものの、あと少し勇気が足りなかった。


 しかし、小鳥遊が自分の席に戻って行こうとした時。昨日の、去り際の陽の顔が浮かんだ。


 また俺は逃げるのか。自分に正直になるんじゃなかったのか。


 もしかすると彼女がずっと俺の前に居座っていたのは、俺の言葉を待っていたからではないだろうか。


 そんな傲慢な考えが脳裏に浮かび、けれどそれと同時にやるべきことが明確になった。



 もう迷いは、なくなっていた。



「小鳥遊」


 俺はそう言って、ショートヘアを揺らす彼女を呼び止める。小鳥遊が俺の方に向き直ったのを確認し、彼女の目を真っ直ぐに差した。


 もう逃げないように。あの時陽から逃げたようにならないために。


 小鳥遊は静かに俺を待っていた。


「今日の数学全然わからなかったから、放課後にでも教えてくれないか」


 言い切った。


 俺は言ったぞ! やったんだ! ついに俺は! 女子と放課後に初めての共同作業をするんだ!


「ごめん、無理!」


 ……へ? 今、なんて?


 小鳥遊は手を合わせて申し訳なさそうにしていた。


「忘れたの?今日の放課後は風紀委員の仕事があるんだよ」


 マジかよ。恨むぞ、風紀委員会。


 こうして俺のはじめての女子へのお誘いは断られたのであった……。


 え? 待てよ。風紀委員の仕事? ていうことは……。


「もしかして、俺も?」


 俺は自分を指差して言った。小鳥遊は首を縦に振る。そしてわざとらしく呆れたように、


「なんだ、メール見てないの?その様子だと忘れたどころか知らないって感じだね。ちょっと半泣きだし。そんなに嫌だったの?」


 小鳥遊はクスッと笑った。


 まじ? 俺泣いてるのお? そうだとしたら完全に断られたことが原因じゃん。俺の気持ち気づいてよ! 小鳥遊ちゃあん! いくらなんでも泣くほどのめんどくさがりじゃないよ!


 それにしても放課後仕事か。あー泣きそ。

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