『ミッドナイト・ブックストア』 本屋で一晩過ごしませんか?
月波結
本屋で寝るということ
わたしは使い慣れない寝袋を、ごそごそ広げていた。新品の寝袋は、どう使うのが適切なのか、イマイチわからない。広げてもてろんとしていて、これで床に直に寝るのかよ、という気持ちになる。
我ながらいつも通りの考えなし。
応募要項には、必要なのは『寝るために必要なもの、但し危険物、他人に迷惑になるものは禁止』と書いてあった。寝具的なものはいるだろうと思って、防災用に買ってあった寝袋を持ってきた。
······なんていうか、偽物のウルトラライトダウン? 薄いところだけが、同じ。
少し間を置いて、同じように寝袋を広げていた男性がこちらを見てくすっと笑う。
薄暗い中でもわかる甘いマスク。きっと普段から女の子にもてもてで、そんなふうに「くすっ」と感じよく笑えるほど女の子に慣れてるんだろう。
彼は、わたしとは違う形の寝袋を持ってきていて、キャンプに使うアルミの厚手のマットとさらに、キャンプ用に違いない、簡易ベッドのようなものを床に広げていた。
ああいうものもあるんだ。なるほど、せめてダンボールでもあれば。
◇
わたしたちの街には本屋と呼べる本屋はここにしかない。あとは、レンタルビデオ店との複合店があるのみ。
最近はそんなところが多いのかもしれない。
ここの本屋は地元民御用達の数十年前に建てられた商業施設内にあり、途中で半分、文具売り場になりながらもなんとか経営を続けていた。
わたしは子供の頃からここが大好きで、迷路のような本棚に、たくさんの本。図書館とはまた違う、新品の本だけが持つ輝きのようなもの、そんなものに心奪われていた。
子供の頃はお母さんが買い物をしている間は本を見て待つことを許され、年頃になってからは遊びに行くのもデートも、待ち合わせはここだった。
そうして家に帰る前にひとりでここにまた寄る。
一番好きな文庫本の棚をぐるりと巡回する。
クールダウンする。
気持ちが静まって、穏やかに家路につく。
進学して、途中に大型書店がいくつもあっても、わたしにとってここは自分のために必要な場所だった。
例え、売る本がドラマ化映画化原作本や、流行りのマンガや、大賞受賞作ばかりになっても、わたしはここに通って、子供の頃のように棚の隅から隅まで、どこになにがあるのか、確かめるようにゆっくり歩いた。
時には棚の間にしゃがんでみたり。
平積みの本を見ているふりをして、気持ちの整理をした。
そんな場所が閉店してしまうなんて――。
閉店のお知らせを見た時には心底動揺して、その薄い紙をじっと見つめてしまった。見つめたからといって、なにも内容は変わらないのに。
そして少しがっかりする気持ちを受け入れてから、また別の貼り紙を見つけた。
★ ★ ★
『ミッドナイト・ブックストア』
一晩だけ、本屋で眠ってみませんか?
本に囲まれて寝てみたい方を募集しています。
★ ★ ★
······なんだこれは?
水族館などで、そういう企画があるのを聞いたことがあるけれど、あれは大型水槽の前で幻想的な雰囲気の中、眠るわけで。
閉店後の商業施設内の、真っ暗な中、砂っぽいに違いない、この固い床の上で寝る?
企画したのは誰だ?
――というわけで意気込んで応募したのは言うまでもない。定員に達してしまっては、せっかくの機会を逃してしまう。しかも、この本屋は閉店してしまうのだ。
最後の思い出を作りたい。
「沢渡さん」
「あ、はい」
つい、つられて返事をしてしまう。振り向くと、さっきの青年がわたしの方を見ている。しかも、爽やかな笑顔で。
「僕のこと、覚えてるかな? ほら、中学の時、昼休みに図書室でよく一緒になったよね?」
「······一緒に?」
疑わしい。こんな爽やかなイケメンなら、覚えてないわけがない。中学生のあの頃、わたしがハマっていたのはティーンズ向け小説で、いろんなタイプのイケメンが次から次へと出てきた。
目の前にそれがいたのに気がつかなかったなんて。······ないない、なにかの口説き文句でしょう。
「そっか、忘れちゃうよね。あの頃、僕、友だちも少なかったし。喘息で大人しくしてないといけなかったんだ」
「あ、そうなんですか? 大丈夫ですか?
こんな埃っぽいところで」
「心配ありがとう。あの頃をピークに良くなったんだ。桂木悠貴、忘れちゃったんなら『初めまして』だね」
そう言って彼はもぞもぞと寝袋に入った。お布団を敷くようにして、足を入れ、下からジッパーを上げる。
「桂木くん!?」
「思い出してくれた? 良かった。沢渡さんにはすごくお世話になったから、僕の方はすぐにわかったよ」
言われてみると、中学の時に図書委員をやっていて、いつも図書室に来てる影の薄い男の子がいたっけ。影も薄ければ、色素も薄くて、髪も瞳も黒と言うより茶色い、ひ弱そうな。
······わかるわけないじゃん、こんな立派な健康的な青年になるとは。
「沢渡さんは、いつも元気そうでハキハキしてて、返却が遅れた子のことを本気で怒って、みんなに怖がられてた。そういうところがなんていうか、僕とは正反対で――」
「ごめんなさい、理性的じゃなくて」
「違うよ。正反対なんだけど、貸出時間の間、カウンターの向こうで本を読んでる君の表情がくるくる回るのが面白かった」
なんだよ、面白がってたのかよ。
なんかツイてない······。せっかく手に入れた特別なイベントの参加権、隣のイケメン、なのに、ああ。
「このマット使いなよ。直に寝ると明日、体中がバキバキになるよ」
え、いいよという暇もなく、彼は素早く寝袋を出ると、自分の敷いてたアルミマットを渡してくれた。そしてまだ寝袋に入らず思案していたわたしをどかして、寝どころをセットしてくれる。それはとても手際が良かった。
「······ありがとう」
「どういたしまして。キャンプは慣れてるんだ」
感じよく笑われると、あの頃していた蛮行が悔やまれる。恋に恋する乙女だったのに、ひとから聞くとどう聞いても野性的。「すみません、この間の本、返却日過ぎてますよ」とかなんとか当たり障りなく、······中学生には言えまい。
わたしたちは闇が覆い被さるような店内の、念願の文庫本コーナーに縦列に寝ていた。他人に足を向けるのは失礼なので、頭と頭が向き合うような形で並んでいた。
いい感じの距離があるのに気になる。
それはそうだ、ほんのり知り合いっていうのは特に気になる。
早いもので棚を隔てた歴史小説のコーナーで寝ている人の寝息が聴こえる。
考えてみたらここに集まった10人ほどは、この本屋が好きだという縁だけで結ばれた赤の他人同士だったんだ。それなのに、店全体を妙な親近感が包んでいる。
みんなそれぞれ、思い出の本をここで買ったんだろう。それはどんな本だったんだろう?
向こうの実用書の棚の下に寝ているお年を召したご婦人はさっき編み物の本に手を触れていた。
絵本コーナーの前に寝ている女性は、懐かしそうにその書架を端から端まで眺めているようだった。
人生の思い出のいくばくかは、本にあるのかもしれない。
「沢渡さん、眠れないの?」
「え、ええ、まぁ」
「こんなに特殊な環境だもんね。明日からこの店がなくなるなんて、考えられないな」
そうだね、とわたしはぼんやり答えた。
ああ、どうしてこのイベントに参加してしまったんだろう。たくさんの本たちがわたしに語りかけてくる。「忘れないで」って。
もちろん、ここの本は出版社に返されるか、ほかの書店に回されるんだろうけど······。
「高校生になって久しぶりに僕はここで沢渡さんを見ました。中学とは違う制服だったから、一瞬、見間違いかと思った。君は一般文芸の本の平積みをじっと見比べてた。何冊かの本を手に取り、選んでた」
「見たの?」
「うん。君はその時、すごく話題になっていた新進作家の本を結局、買ったんだ。その本は」
「『
男の人は、甘い恋愛小説なんていくら話題になっていても読まないか、と思った。苦笑いしてごまかす。
「沢渡さんがレジに向かったあと、僕もその本を手に取ってレジに向かったよ」
「なんで!?」
「図書室のおすすめコーナー、ほとんど沢渡さんが選んでたでしょう? どの本も面白かったんだ、本当に。だから、沢渡さんが買う本なら間違いないと思って」
周りの人の迷惑にならないよう、ボソボソという声が、やけに耳をくすぐる。
むかしは、こんな声じゃなかった気がする。そう、よく「貸し出しお願いします」って来た時に聞いた声。まだ声変わり前だったんだ。
自室より高い天井を見上げる。
そう言えば、天井までしみじみと見たことなかったな。暗闇の中でほんのり発光するように、くすんだ白い天井は星空の代わりにわたしたちを覆っていた。
「それから、学校帰りにここを通る時、君の姿をなんとなく探した。大体の場合、ここに君がいた。いつもあの本を選んだ時と同じ、難しい顔をして本を眺めていた。手に取ったり、パラパラめくってみたり。『泡沫』以外にも君が手に取った本を買ったことがあるよ。だから僕にとって君は本のコンシェルジュだ」
「そう、わたし今は司書になる勉強をしてるの」
「天職だね」
「かもね。でもその前に、この店の店員に······」
「そういうセンチメンタルな出来事は人生の中で度々起こるんだよ、だから――」
ガバッとわたしは上体を起こして、桂木くんの、ぼんやりしか見えない顔を見た。
「桂木くん。そう、思い出した。桂木悠貴。この前のK社の新人賞をとってデビューした若手の新進作家」
「意外とバレるまで時間がかかったな」
「早く言ってよ! あれ、すごく良かった。『孤独で
彼はプッと吹き出した。
「明日はここで本を買えないんだよ」
「······ああ、そうだね」
なにかのネジが外れて、また寝袋に潜り込む。
そろそろ寝なければ、周りの人に迷惑だ。
『孤独で感傷的な僕の旅』は、主人公の青年が鈍行と急行の電車を乗り継いで、いろいろな街に行き、いろいろな人に出会う。その中で青年は自分がいかに孤独な存在であるかを実感する。その孤独の再確認こそが、本のテーマだった。
「今度できたカフェ、あそこは行ったことある?」
「うん、一度だけ」
「僕、最近あそこでよく執筆するんだ。もしよかったら別の日に、そこに本を持っておいでよ。もちろん、献本もするよ」
献本、それは魅惑的な言葉だ。
読者なら作家から直接本をもらうことを断ったりするまい。
「連絡」
「待って、スマホ出す」
スマホは暗闇を引き裂くような光で、気が引けた。話し合って、朝になったら交換しようと約束する。
「だからさ、僕にとってもここは特別な本屋なんだ。僕と君と本を紐付けて、まだ短い人生の一部分を過ごした場所。よかったよ、閉店前に本を置いてもらえて」
言われてみると桂木悠貴の本は大々的に平積みされていて『当店、販売員おすすめ』と書かれていた。なるほど、そんなことが――。
そしてその本もまた、わたしはここで買った。
「約束したから、もう寝よう。たぶん、一生で一度の経験。本屋の棚に挟まれて寝るなんて」
「······最高の経験」
ふふっとわたしたちは笑った。いい感じに温かい空気がふたりを包んでいた。
驚くことばかりだったけど、そうか、この本屋はわたしに最後にこんなプレゼントをくれたのか。
中学の同級生がまさかこんなに素敵な人になって、そしてまさか作家になってたなんて。
サインをもらう時には絶対、感想を書いて渡そう。主人公の孤独についてのわたしの勝手な感想を。
わたしたちはみんな、孤独であり、孤独な者同士が集まって、社会を構成している。孤独であることは、決して感傷的なことではない、と。
◇
翌朝目覚めると、人々の動く気配がした。
海の底にたゆたうような不思議な体験はもう残念なことに終わってしまったらしい。
ああ、本当にもう――。
枕元に本が置かれていた。見慣れた表紙。
――彼は行ってしまった。
『沢渡さん、昨日はとても懐かしい気持ちにさせてくれてありがとう。実は僕は今日、アメリカに旅立ちます。最初から決まってたんだけど、どうしてもこのイベントに参加したくて。
というのも、企画者は僕で、こんな企画なら君はきっと現れるだろうと思ったんだ。
旅立つ前に、僕を本の世界に導いてくれた君にどうしても会いたくて。ほら、引っかかったでしょう?
取材の予定は1ヶ月ほどです。連絡先は書いておきます。帰国したら、あのカフェで会いましょう。ちなみにこの本は献本です。再会した時に、サインはするからね』
メモ用紙の下側に、男らしくないやわらかい丁寧な文字で連絡先が書かれていた。
······やられた。アルミマットも返さなくちゃ。
◇
本屋は予定通り、閉店した。
代わりに大型チェーンのワンコインショッブが入って、それでもその商業施設は今まで通りの顔をして営業を続けた。
今でもふと、本屋に足が向いて思い出す。
閉店と、あの不思議な夜と、桂木くんのウィスパーボイス。お陰で彼が出るのも気づかず寝てしまった。ずるい。
また会えると思ったから安眠してしまったのに。
その巧妙な手口のせいで、わたしはその1ヶ月の間、彼のことを考えない日はなかった。
悔しかったので連絡先は送ったけど、それ以外にメッセージを送ったりはしなかった。
もし彼が本気なら、向こうから――。
◇
「久しぶり。怒ってる?」
ノートパソコンを前に置いた彼は、前と同じように微笑んだ。あの時は気にしなかったけど、笑うと少しタレ目になる。柔和な雰囲気がいっそう輪をかけてやわらかくなる。
「本、ありがとう。今日は桂木先生に、サインをいただきに来ました」
「変わらないなぁ、中学の頃と。サインは書きます」
1ヶ月待たされた本に、ようやく作者の名前が記された。ご丁寧に『沢渡さんへ』と書かれて。
「座ったら」
「そのつもり」
手に持ったコーヒーをことんと音を立ててテーブルに置き、じっと桂木くんの手元を見ていた。
ブラインドタッチはミスも少なく、思考する速度でするすると文章を紡ぎ出していく。
「また『孤独』の話?」
「いや、『本屋』の話。多重世界の本屋を旅していくんだ。自分の影を探して」
「孤独じゃない」
「そうかな? でもその旅の途中で、そのそれぞれ違った世界の本屋に君がいる。ある時は店員だったり、お客さんだったり、立場が違ってもみんな君だ。孤独じゃない」
にこっと、反論の余地もなく微笑んだ。
なんだかこんなふうにずっとはぐらかされ続けるような、嫌な予感がする。
とりあえず感想は渡した。レポート用紙に数枚、びっしり書いたので封筒はパンパンだった。それからアルミマットも返す。彼は「どうも」と苦笑した。困った顔をして、目尻が下がる。
ああ、こういうのに女の子は弱いんだけど。
「じゃあね」
待ってよ、と彼はわたしを呼び止めた。足は意思に反してぴったり止まった。
「あのさ、がんばって書くから、そのお金でこの街にまた本屋を作りたいんだ。その時はぜひ君をスタッフにお願いしたいと思うんだけど、どうかな?」
「ずいぶん先の話じゃない? それまでまた『待て』されるのね。OK、了解。半分本気で待ってる」
「あのさ! しばらく毎日ここにいるから」
わたしは彼の目を見ると真っ直ぐその顔を指さしてこう言った。
「わかったから黙って書きなさい。本屋までの道のりは遠いんだよ」
そんな本屋が本当にできるのかは知らない。
でも雇ってくれると言うなら店員1号として、我儘のひとつも聞いてもらおう。
その新店舗の真新しい本の紙の匂いに包まれて、棚の間で最初に寝るのはわたしだ。
それがたったひとつの雇用契約。
いつの間にか、桜のつぼみがまだ開かずともずいぶん膨らんでいた。
新しい本屋の開店は、やっぱり春がいいな、と思いながら、カフェを後にした。
(了)
『ミッドナイト・ブックストア』 本屋で一晩過ごしませんか? 月波結 @musubi-me
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