第18話

「和也?」

 なんとなく気分が疲れてしまって、ゆっくり振り返ると、一樹が不思議そうな顔をして立っていた。

「一人か?」

「は?」

 何を言っているのかと思ったら、一樹の向こうに神野じんのさんがいるのが見えた。

「どうも。ここで友達と待ち合わせしていたんだけど、知りません?この間の子なんですけど。」

「ああ。・・・そうか。」

 そういえばそんな話をしていた。ほんのちょっとの時間だったのに、すっかり忘れていたが。

「うん。少し前までいたけど、少し、周りを歩いてくるって、向こうの方へ。」

 そう言うと、神野じんのさんも一樹も、そろって怪訝な顔をした。

「・・・で?」

「で?ってなんだよ。」

 一樹がずいと近づいて、声を低める。

「お前、ここで何やってんだよ。黙って見送ったのか?」

「そりゃあ、まあ・・・」

 思いのほか真剣な表情に、ついたじろぐ。

「何やってんだよ。追いかけろよ。」

 その言葉は、心のどこかにあった声と同調し、押し込めたばかりのざわざわした感情をあっけなく開放した。背中を押されるように、足がひとりでに動き出す。

 何をしているのだろう。彼女を一人、行かせてしまった。一人で去るのを、また見送ってしまった。姿の消えた方に急ぎながら、人ごみを見渡す。すぐに追いかければよかったと焦りながら、目印があるわけでもなく、途方に暮れる。

「あ・・・」

 足が止まった。視線の先に、小学生くらいの女の子がいる。薄いピンクのカーディガンを着て臙脂のスカートを履いた、日本人形のような顔の子。どこかで見たような、記憶を掠る女の子。その子は、行き交う人の中、一人佇んで、じっとこちらを見ていた。不自然に大きな黒目と、子供っぽくない無表情のせいか、まるで等身大の人形のように見える。

 その子は、おもむろに視線を外し、体の向きを変えて歩き始めた。慌ててその後を追いかけて、人波の中を歩いていく。姿を見失っても、その子はどこかで待っていて、またどこかへと向かっていく。それを何度か繰り返して、たどり着いたのは、桜だった。ソメイヨシノはもうほとんど散って、赤い萼の色が目立っているけれど、その桜はまだしっかり花がついていて、色も濃い。その下に彼女が立っていて、木を見上げていた。

 それは、懐かしくて、美しい、いつかの光景と重なった。

「いと、ざくら。」

 知らずに零れ出た言葉は、哀しくて、嬉しくて、どうしようもなく遠い何かを思い起こさせる。求め続けて、手を伸ばし続けて、届かなかった、何か。

 周りの雑踏が動きを止め、雑多な音が遠のいていく。ゆっくり歩み寄ると、彼女も気づいて、振り返った。戸惑ったような彼女の顔も、頭一つ分小さな彼女を見下ろすこの感覚も、どこか懐かしい。胸が詰まるような気持になりながら、その目を見つめる。こみあげてくる感情が何かは分からず、何か言おうと口を開くが、言葉は舌の先に引っかかる。

 これ以上は、踏み込むな。押し留めるものがどこかにあって。それでも。

 言わなければ、伝えなければ。また、すり抜けてしまう。その思いが、言葉を押し出した。

「とお、こ。」

 泣きたいような気持がこみあげてくる。失くしてしまったものを見つけたような、何かをつかみ取ったような。

 会いたかった。名を呼びたかった。視線を交わし、言葉を交わし、想いを交わしたかった。

「俺と、付き合ってほしい。」

 彼女の目がゆっくりと見開かれ、頬が上気していくのを、固唾を呑んで見守る。その唇が、一度開かれ、また閉じた。



 紅の強い桜の下で、恥ずかしそうに俯く娘と、舞い上がりそうな心持ちがよく分かる青年が、向かい合って立っている。その様子を眺める樹霊は、人波に身を置きながらも、誰に認識されることもない。

(ようやく、成就するか)

 長の年月、只ひたすらに、この時が来るのを待っていた。よほど思いが強かったのか、二人は幾度か生まれ変わりを果たしたものの、同じ時、同じ場所に生まれたのは、ただ一度だけ。しかし、どうしても互いに踏み込むことが出来ず、願いは成就されなかった。あの時は、法師の生まれ変わりはいなかったのだが。

 体から力が抜けていく。体が透き通り、光に溶けていくのを認識する者はやはりいない。樹霊の姿が見えていたのは、あの二人と、法師の生まれ変わりだけなのだ。

『よくやったね。』

『頑張ったね。』

 仲間達の声が聞こえる。

『長い間、見守った甲斐があったな。』

「有難き事にございます。我儘をお聞き入れくださいまして。」

 寿命を過ぎながら、花もつけず枯れることもせず、引き伸ばし続けたのは、ひとえにこの為。それも、もう限界に達していた。樹霊の願いは、この先の世には届かない。これが、最後の機会だったのだ。

 事が成った今は、ただ満足だった。

(今生こそは、思い合う者と生きよ。遠子。)

 淡い萌葱色の光となって消えていった樹霊に、気付く人間はいない。ただ、微かな香りを感じた透子が、不思議そうに顔を向けたのみだ。

 その日、京の山の中で、一本の枝垂れ桜が静かに枯れた。



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