第17話
『遠子、か。』
『これをくれるのか?良い香りだ。』
『
心浮き立つような、足の軽やかになるような喜び。ものを良く知っているかと思えば、思いもよらぬところが欠けていて、ゆかしいと見えることもあれば、幼子のように拗ねてみたりもする。声を聞くだけで、笑んでくれるだけで舞い上がるような心持ちとなる。
やがて、触れたいとも、抱き寄せたいとも思いながら、望まぬことを無理強いは出来ないと、葛藤する心。すぐそこにいるのに、見えない壁に阻まれるようなもどかしさ。
『濡れ衣だ!東宮を呪詛し奉るなど、そのような恐ろしいことをするものか!』
『隠し巫女など知らぬ!何を言っている!』
『まさか、
覚えのない罪を問われ、誇りを奪われ、貶められた怒りと恨み。
友と信じた者の裏切り。
哀しみと痛み。
『いや。
権力を巡る争いは、元々熾烈で容赦のないもの。隙を見せれば負けなのだ。
そして、絶望。
『遠子が・・・。間違いないのか、高雄。』
『馴染みとなりました者どもから聞き出しましたが、残念ながら。』
別れを言うことも出来ず、文の一つもやり取りできずに、儚くなってしまうとは。いずれ汚名を
流行り病で右大臣家の者達が失せたと聞いても、何も思わなかった。都に残した母や、幼い弟妹を案じる気持ちが少し、あるだけだ。
赦免の知らせが来たときは、ただ虚しかった。
起きたばかりだというのに、今日は体が重くて、なんだか疲れている。夢の中に彼女が出てきたような気がしたが、よく覚えていない。ただ、気分の起伏が激しくて、疲れる夢だった。
首や肩をグルグル回しながら、のっそりと起き上がる。今日は、一樹の用事に付き合えと言われている。何の用かも言わない上に、どうせ暇だろう、と決めつけるのだから、失礼な奴だ。俺だって忙しい、と言ってやりたかったが、残念ながら今日は空いている。この間は、死んだ魚のような目をしていたのに、
待ち合わせの上野公園は、桜の盛りを過ぎても人が多い。
(今更花見でもないだろうしなあ。)
桜は綺麗だけれど、意味もなく悲しくなるから、和也はあまり好きではない。花見には付き合うが、周囲のように浮かれることは出来なくて、この時期はいつも鬱々とする。だから、わざわざそんなことの為に呼び出されたら、多分怒る。
時間ギリギリになったが、そもそも呼び出したのは向こうなんだから、少し遅れてもいいくらいだろう。そう思って歩いていたら、一樹からメールが来た。
『三十分くらい遅れる。待っててくれ。』
「・・・あの野郎。」
呼び出しておいて遅れるって、どういうことだ。一杯くらい奢らせてやる。
「いや、一食だな。」
そう呟きながら顔を上げて、目に飛び込んできたものに驚いて、もう少しで携帯を落っことすところだった。
「え?か、上條さん?」
一瞬、白昼夢でも見ているのかと思ったが、向こうでも驚いたように目を丸くしている。
「え、と、え?なんで?」
「あ、あの、待ち合わせをしていて。あ、この間の、友達と。」
「ああ・・・」
こんな偶然があるのだろうか。何か言わなければ、と思うのだが、あまりに驚いて何も出てこない。と思っていたら、いきなり彼女がぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい。」
「え?」
「あの、メール。返しそびれてしまって、日が経ったら、余計に返しづらくなって。すみません。」
「あ、ああ。いや、大丈夫。忙しいのかな、と思ってたし。うん。」
そう言いながら、ほっとして、つい口元が緩んでくる。嫌われたわけではなかったようで、良かった。
「怒らせちゃったりしていないかな、とか、ちょっと思ったけど。」
「え?全然!全然です。」
「そ、そう?良かった。ちょっと安心。」
余計なことを言っているような気がしながらも、そんな会話を交わして、もっとましな話をしようとして、詰まってしまった。
こんなことは初めてだが、何を話したらいいのか分からない。この間、話が途切れなかったのは、
「あ、今、この間の奴と待ち合わせしてたんだけど、遅れてくるとかいうもんだから、ちょっと時間が空いちゃって。」
「そうなんですね。実は、私も・・・」
これもまた、偶然だ。なんだか誘っているような流れになってしまっているが。
いや、むしろいいのだろうか。良ければお茶でもとか言ってみるべきだろうか。しかし、その後どうしたらいいだろう。
奇妙な間が空いて、お互い曖昧な笑顔のまま固まってしまう。
「なので、少しそのあたりを歩いてこようかと。」
「あ、ああ、そう。」
彼女の方から、そう切り出されてしまった。
「じゃあ、また。」
「うん。また。」
背を向けて去っていく彼女を呼び止めようとして、すぐに思い直す。
踏み込んではいけない。そう望んでいるのならば。
そう思いながら、視線は外せず、足は今にも駆け出してしまいそうで、それをどうにか抑え込む。一度会っただけの相手なのに、我ながらどうかしている。完全に人ごみに紛れてしまってもなお、その姿を探して、しばらくして、ようやく息をついた。
これで、いいはずだ。
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