第16話

 北山は常から人の訪れが少なく、まして糸桜の下まで来る人間は、まずいない。野分のわけが暑さを吹き散らす季節となったが、都には、人には見えぬ暗雲が垂れ込めている。

 遠子が心を寄せたあの公達が、人間同士の争いで遠方へ送られてから、一年ひととせが経つ。文を燃やし、関係を問い質されても知らぬ存ぜぬを通した遠子であったが、あの者に降りかかる災いを、完全に払うことは出来なかった。他の者には明かせぬ心の内を語りに、ここを訪れることはあったが、以前ほど繁くはなく、このところは、すっかり途絶えている。

 人間のすることは不可思議だ。よわい七つに満たぬ幼子が、暑熱にあてられて床に臥すなど、おかしなことではない。

 呪詛など、なかったのだ。

 そう言い立てた者が、意図しての事か、本当にそう信じていたのかは分からぬが、呪が生まれたのは、むしろその後だ。発端となった悪意は、故なき罰を受けた者の怨嗟や無念を集め、幼い東宮と周りの者へと向かっている。





 野分のわけが去り、重陽ちょうようの節句も過ぎて、青の衣に紅を重ねようかという頃、風が知らせを運んできた。

「そうか。・・・ぬるか。」

 空は高く澄んでいるが、都の空は相変わらず暗い霧が覆う。東宮の人形ひとがたであった遠子は、あれを受け止めていた。本来なら、祓うことも出来たやもしれぬが、身の内を焼かれる痛みを抱えた今の遠子には、難しい役目であったのであろう。


 山が鮮やかに色づき、紅に山吹と蘇芳の紅葉襲もみじがさねとする頃、一人の女が、錦を敷いた道を訪ね来た。遠子の女房で、確か名を葉菊と言った。この者に我の姿は見えぬが、存在は遠子から聞き知っていて、傍まで来ると、丁寧に拝礼をした。それから、遠子が世を去る前の様子を語った。遠子は、山吹の花を常に手許に置いていたという。あの公達が、文の一つに添えて送ったものを、押して取り置いたものだ。それだけは、誰から贈られたと悟られずに済んだゆえだ。


 君待つや 鳥ゆく空を 渡らはむ 雲の通い路 花をさしつつ

『魂が姿を変えて往く空を、渡って行きましょう。山吹を灯として掲げながら、煙となって貴方の元へゆく道を。貴方は、待っていてくださるでしょうか。』


 最後には、そのような歌を詠んだという。哀れなことだ。

 人間は儚く、寿命も短い。だから、このような日が来ることは分かっていた。しかし、友となれる人間は少なく、やはり寂しく思えた。




 それから、いくつもの季節を、山の獣や仲間の精霊達と語り合いつつ過ごした。風が冷たさを増し、蘇芳から氷へと衣が変わる頃、薄く雪の降りた道に枯葉を踏みしめて、一人の法師が辿り来た。その法師に見覚えはなく、法師も初めて訪れるように、心許なげであったが、我の下まで来ると、感慨深げに見上げてきた。その法師に我は見えず、また、存在も知らぬ様子であったが、まるで何かと話すかのように語りかけてきた。

 その法師は、あの公達の友であった。あの後、都を流行り病が襲い、幼かった東宮も、右大臣家の主だった者達も、あっけなく失せていった。今はもう、都を覆っていた暗雲は晴れている。欲に捕らわれて悪意を撒き、自らの首を絞めるとは、人間とはまことに、不可思議なことをする。病を鎮める為に、呪詛事件で罰を受けた者は赦されたらしいが、あの公達は流された地で病みがちになり、そのまま絶えてしまった。初めの頃は、様々に恨み言も漏らしていたようであるが、最後はただ、一人のことのみを思っていたという。


 うき身世に 露と消ゆとも 見し人を 思ひ思はむ 後の世にこそ

『辛いこの身があっけなくこの世を去ったとしても、妻と思い定めた人を思い続けよう。来世では添い遂げたいものだ。』


 遠子の思いは、あの公達に届いていたのであろうか。そのような術は、なかったやも知れぬ。

 この法師は、友に合わせる顔がないと、会いに行くことはなかったものの、誰からと分からぬように、必要な物を送っていたらしいが、全てが終わった後に出家し、二人を弔い来世のえにしを祈る余生を選んだ。

 来世など、必ずあるとは、限らぬものを。二人が必ず会えるとも、限らぬものを。 

 あの公達も、遠子も、この法師も、それぞれに哀れなことだ。




 降りかかる雪に、鳥も獣も身を潜め、時が静かに流れる中、瞼を閉じて、遠子のことを思い出す。あれは、もっと長く生きるものだと思っていた。誰ぞと契りを結び、子を成して、その子らをここで遊ばせることもあるかと思っていた。そのような遠子を見てみたかった。樹霊の身で、出来ることもありはせぬが、あの法師と共に、我も願ってみよう。二人に次の世があるのなら、次こそは、何に縛られることなく、思いを遂げられるようにと。

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