第14話

「呪詛ですと?大納言殿が?まさか・・・」

 夏も盛りを越えた頃であった。

 東宮が体調を崩されたことから、都に、俄かに不穏な雰囲気が漂い始めた。風邪を召されることはあっても、常はすぐに回復なされるものを、この時は、なかなか熱が引かず、呪詛を掛けられているのだと噂が流れたのだ。

「無論、大納言一人の考えではあるまい。左大臣の差し金であろうが。」

 右大臣と反目する左大臣と、大納言は近しい。東宮を擁する右大臣家の勢いを削ぐために、東宮を挿げ替えようとしているという理屈は、一見通るように見える。しかし、敦隆あつたかには、事も無げにそのようなことを言う兄こそが、この噂の源ではないか、という気がしてならない。幾度か直に話をしたこともあるが、顕孝あきたかの父君がそのような恐ろしいことをする人物とは、とても思えないのだ。

「あの大納言殿が、そのような大それたことをなさるとは・・・。何か、証があるのですか?」

「すぐに見つかるだろう。左兵衛佐ひょうえのすけが、東宮の隠し巫女に近づいたのも、この為であったのであろうな。」

顕孝あきたかが?隠し巫女とは何です?」

「ああ。一蔵人くろうどでは、知らぬことであったか。」

 嘲るような兄の表情に、嫌な予感がした。

「余計な事をするなよ、敦隆あつたか。既に事は動いているのだ。曲がりなりにも、右大臣家の者ならば、敵を利するような振る舞いは控えよ。もっとも、今更何も出来ぬだろうがな。」





「文を燃やしなさい。」

 遠子の言葉に、長く仕える女房の葉菊は、息を呑んだ。

「ですが・・・」

「これが他人の目に触れれば、あの方の大きな災いとなります。全て燃やしなさい。」

 長にも匹敵する巫女姫に、厳然とした調子で命じられれば、一族の者としては黙って従うのが道理だ。ただ、葉菊は、遠子が抱えている想いを慮って、躊躇した。

 当初は困ったような顔をしていた遠子だったが、次第に心を通わせるにつれ、届けられる文を心待ちにするようになっていた。返事を書くことは出来なくとも、一つ一つの文を、大切に、押し抱くようにしている姿を、葉菊は目にしていた。

 遠子は、表に存在を知られてはならず、一族以外の者と交わることは許されない、貴い血筋。本来なら、あの公達との縁は、とうに断っていなければならなかった。それは、側近くに仕える葉菊の務めでもあったが、文を見る時の嬉しそうな顔や、あの公達を思う時の穏やかな目を見ると、随分と酷な事のように思えて、ついその役目を押し通すことは出来なかったのだ。

 一つ一つ火にくべられて燃えていく文を見ながら、遠子は固く手を握りしめていた。手は袖の中に隠され、周りの者には、何の感情も窺い知れないように見えていただろうけれど、胸の内は、炎の中で灰となっていく文と一体となったかのような心持ちであった。

 都を覆う邪気と、それがあの人を濃く包むことに気付いた時には、もう遅かった。出所の知れない邪気が広まるのはあまりに急で、遠子には成す術もない。左兵衛佐ひょうえのすけから届けられた文にもそれが漂うのを見て、これを燃やさなければならないと決めたけれど、込められた想いまで灰になっていくようで、いたたまれなかった。

 自分と関われば、このような事も起こりうる。それは、分かっていたはずだった。だから、踏み込ませてはならなかった。踏みとどまれなかった、己の咎だ。身の内を焼き尽くされるようなこの痛みは、罰なのだ。

 だから、遠子は、涙を零すこともなく、全ての文が灰になるのを、ただ静かに、見守った。



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