第12話
「おい、上條!」
上司の声に、はっと顔を上げる。
「何ボーっとしてるんだ!資料出来てんのか!」
「あ、はい!出来てます!」
仕事中なのに、携帯を手に、ついぼんやりしてしまった。数日前の演奏会に来てくれた、和也という人のことが、ずっと引っかかっている。
初めて会ったはずなのに、目が合った瞬間、懐かしいと思った。胸の奥を掴まれるような苦しさを覚えた。会うはずのない人を見たような衝撃を感じた。
一体、あの感覚が何だったのか。
動揺したせいか、名前を聞きそびれてしまった。一緒にいた人が、ずっと下の名前で呼んでいたから、名字の方は、分からずじまいだ。彼からは、家に戻った後、メールが届いていた。今日はお疲れ様、というような、当たり障りのない、ただの挨拶だ。だから、普通に返事を出せばよかった。
『踏み込ませてはならない。』
けれど、なぜか返信は返せず、手が止まってしまった。でもやはり気になって、携帯を手に取り、また置く。その繰り返しで、三日経ってしまった。失礼だし、怒っているとか、不快と思っているとか、誤解させてしまうのではないか。そう思っても、やはり返事を返すことは出来なかった。
「和也。またお前はぼーっとして。ここ、間違えてるぞ。」
「あ、すんません。」
つい、携帯を手に、ぼんやりしてしまった。一樹の伝手で出会った、上條透子という人のことが、頭から離れない。一目見た時に感じたもの、嬉しいとも哀しいともつかない感情が何だったのか、息が止まるほどの衝撃がどこから来たものか、未だによく分からないでいる。
あの後、メールは送ったが、返信はまだ来ていなかった。メールチェックをあまりしない人で、気付いていないのか。それとも、知らないうちに、怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。もう一度送ろうか、それはしつこいだろうか、と逡巡しながら、もう三日だ。
「和也。オーナーに言われたこと、迷ってんのか?」
「え?ああ、それは、まあ。」
「まあ、いきなり店を任せたいとか言われたら悩むのも分かるけどな。あの人も自由人だから。」
つい、苦笑する。会社社長のくせに、趣味で喫茶店のマスターなどやっているのは、自由が過ぎるというものだろう。会長が元気だからよかったらしいのだが。
『さすがに親父も年だから、本業に本腰入れんとな。』
そう言いつつも、店をたたむ気はないらしく、なぜか和也に後を任せたいと言ってきた。
「俺、ただのバイトですけどね。」
そりゃあ最近は、俄かに忙しくなったオーナーの代わりにほとんどの仕事を代行していたが。
「そのまま守ってくれそうな奴に託したいんだろ。あの人にとっては、思い入れのある店だからな。」
店の常連でもある先輩は、オーナーのことも良く知っている。
「見込まれてんだぞ、お前。しっかりしろよ。」
「・・・すんません。」
つい携帯に触れながら、つい彼女のことが脳裏によぎりながら、それでも今は、目の前のことに意識を戻す。疎かにして良いことではないから。そう考えながらも、思考はそこから離れない。
彼女は今、何をしているだろうか。
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