第11話

 洛中より些か春の遅い北山も、桜はとうに散り、萌え出た新芽がみるみる色を濃くしている。今は藤や山吹が盛りだ。糸桜も、薄きくれないから青へと衣を変えている。

 常であれば、花を落とした桜を訪れる者はいない。風雅を愛でる都人なら尚のこと、時期の過ぎたものには目を向けないものだ。だが、『糸桜の女』は、花を愛でに来ていたのではなかったから、季節は関係がない。

「遠子よ。なれは、あの公達きんだちが心に懸かるようじゃの。」

 今日は裏山吹のうちきを纏って垂布を上げている遠子は、その言葉に目を瞬いた。

「なぜ、そう思うの?」

「我が知らずと思うてか?」

 女童めのわらわの姿をしているこの樹霊は、実は遠子よりずっと年上で、少し古めかしい話し方をする。肌は雪のように白く、髪も瞳も薄墨色で、唇はほんのり紅く、儚げに見えるのに、その口から出る言葉には遠慮がない。

「現に、あの公達きんだち、と言うて、浮かぶは一人であろ?」

「・・・意地悪ね。」

 遠子が、少し唇を尖らせた。糸桜の樹霊は、澄ました顔で続ける。

「あのおのこも、なれが心から離れぬようじゃな。」

「変わり者と、興味をお持ちになられただけでしょう。このように野山を歩き回る女など、ご存知ないでしょうから。」

 身分の高い男達は、余程のことがなければ、一つ所に留まることはない。飽きが来たら、去ってゆくものだ。しかし、そう言いながらも、遠子の顔は複雑だ。

「些か軽いところはあるが、情けは深いと見える。歌の才は然程でもないがの。」

「素直にお詠みになるわ。」

 技巧を凝らすこともなく、素直に想いを詠んでいる歌は、むしろ心に届くものがあり、確実に遠子の気持ちは、揺らいでいた。

「されば、返事をしてやれば良いではないか。」

 その言葉に、遠子は曖昧に笑んで俯いた。

「大納言殿の若君よ。いずれは公卿くぎょうにも昇られる方だわ。」

「我からすれば、なれの方が格上ぞ。人間に、序列をつけるとすればじゃが。」

 樹霊である身には、人の世の習いも、人の決めた序列も、関わりのないことだ。気に留めるとするならば、精霊と通ずる力があるか否かである。

「しかし、問題はそこではないのであろ。なれ隠部かくしべゆえな。」

「そうね。人形ひとがたの身では、そもそも叶わないことだもの。」

「かつては皇家と比肩する一族であったのに、倭に取り込まれて、今は皇家の影じゃ。もっとも、皇家の方は、力ある者を失い、祭祀も形ばかり。力を残すのは、なれらのみぞ。中でもなれは力が強い。長ともなれように、人形ひとがたとするとはの。」

「それが、上の思し召しであるならば。」

「煩わしい事よ。あの公達きんだちは承知しておるのか ?」

「どうかしら。兵衛佐ひょうえのすけでは、まだご存知ないと思うけれど。」

「知らせてやらぬのか?ほれ、また訪ね来おるぞ。」

 遠子が振り返ると、樹霊の言う通り、左兵衛佐が青々とした葉陰の中を歩んでくるところだった。

 花の盛りにここで会った公達きんだちは、花が散る頃にまたやってきて、それからは日をおかずに通ってきているようで、まるで、ここで逢引きをしているような様になっている。どのような伝手つてか、遠子の家もつきとめ、ここで会えなかった時は、文を届けてくるのだ。しかし、遠子が返事をしたためることはなかった。

 兵衛佐ひょうえのすけはこの小径にも慣れたように登ってくる。いくらか上気した顔を綻ばせている様子が、垂布を降ろしていても、遠子には分かる。

 兵衛佐ひょうえのすけが纏う狩衣は、青山吹。これは、偶然ではない。遠子は予感していた。藤のうちきを用意しようとしていた女房に、裏山吹にするよう申し付けたのは、遠子だった。

「今日は会えて良かった。」

 その声に、胸が高鳴るのを感じながら、努めて平静を装う。

「尼君のお加減は、如何です?」

「尼君はお元気だ。今は見舞いに通っているのではない。」

「ここは洛中からは遠く、花もない今は、お通いになるほどの風情はありますまい。」

「花も青葉も紅葉もみぢばも、それぞれに風情はあるものだが、『糸桜』が在れば、他の花は不要であろう。」

ひななる身なれば、一時ひとときであれ、兵衛佐ひょうえのすけ殿が興味をお示しになる程の者ではございません。」

「つれないことを。何か、気に障ることをしてしまっただろうか。返事をくれぬのは、その為か?」

 少し気落ちしたような声に思われて、また、心が揺らいでしまう。

「『糸桜』。もしや他に―――」

「遠子です。」

 糸桜の樹霊の前で、『糸桜』と呼び掛けられるのは、居心地が悪い。だからつい、そのように言ってしまった。左兵衛佐は一瞬押し黙り、次いで嬉しそうに呟いた。

「遠子、か。」

 失敗したかもしれない、と思った。邸に籠る女達は、ごく親しい者しか、名を知らないものだ。名を教えるということは、親しい仲となっても良いと、誤解させてもおかしくはない。秘された一族である隠部は、表の人々と交わることは許されていないというのに。

「この樹の下のみ、にございます。」

 戸惑いながら、言い訳のように付け加えて、思う。

 誤解だろうか。自分もまた、そうなることを望んでいるのではないだろうか。

 騒めく心が現れたかのように、強めの風が吹き抜けた。笠は抑えたが、捲れた垂布が、枝垂れる枝に引っかかる。布を直そうと手を伸ばすが、枝が揺れて掴めない。まるで、樹霊が意地悪をしているようだ。

ほどこう。」

 兵衛佐ひょうえのすけが近づいてきて、揺れる枝を抑えながら絡んだ布を外す。その布を降ろす前に、目が合った。遮るものもなく瞳を見交わすことなど、あってはならないことなのに。まして、薫きしめた香の匂いが分かるほど間近でなど。

 時が止まったような気がした。供の者が慌てた様子でいるのも、気に止まらない。兵衛佐ひょうえのすけの瞳が、熱を帯びる。

 これ以上、踏み込んではならない。踏み込ませてはならない。

 理性が囁くその言葉は、風に散らされる霞の如く、頼りなく、消えていくかのようだった。

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