第11話
洛中より些か春の遅い北山も、桜はとうに散り、萌え出た新芽がみるみる色を濃くしている。今は藤や山吹が盛りだ。糸桜も、薄き
常であれば、花を落とした桜を訪れる者はいない。風雅を愛でる都人なら尚のこと、時期の過ぎたものには目を向けないものだ。だが、『糸桜の女』は、花を愛でに来ていたのではなかったから、季節は関係がない。
「遠子よ。
今日は裏山吹の
「なぜ、そう思うの?」
「我が知らずと思うてか?」
「現に、あの
「・・・意地悪ね。」
遠子が、少し唇を尖らせた。糸桜の樹霊は、澄ました顔で続ける。
「あの
「変わり者と、興味をお持ちになられただけでしょう。このように野山を歩き回る女など、ご存知ないでしょうから。」
身分の高い男達は、余程のことがなければ、一つ所に留まることはない。飽きが来たら、去ってゆくものだ。しかし、そう言いながらも、遠子の顔は複雑だ。
「些か軽いところはあるが、情けは深いと見える。歌の才は然程でもないがの。」
「素直にお詠みになるわ。」
技巧を凝らすこともなく、素直に想いを詠んでいる歌は、むしろ心に届くものがあり、確実に遠子の気持ちは、揺らいでいた。
「されば、返事をしてやれば良いではないか。」
その言葉に、遠子は曖昧に笑んで俯いた。
「大納言殿の若君よ。いずれは
「我からすれば、
樹霊である身には、人の世の習いも、人の決めた序列も、関わりのないことだ。気に留めるとするならば、精霊と通ずる力があるか否かである。
「しかし、問題はそこではないのであろ。
「そうね。
「かつては皇家と比肩する一族であったのに、倭に取り込まれて、今は皇家の影じゃ。もっとも、皇家の方は、力ある者を失い、祭祀も形ばかり。力を残すのは、
「それが、上の思し召しであるならば。」
「煩わしい事よ。あの
「どうかしら。
「知らせてやらぬのか?ほれ、また訪ね来おるぞ。」
遠子が振り返ると、樹霊の言う通り、左兵衛佐が青々とした葉陰の中を歩んでくるところだった。
花の盛りにここで会った
「今日は会えて良かった。」
その声に、胸が高鳴るのを感じながら、努めて平静を装う。
「尼君のお加減は、如何です?」
「尼君はお元気だ。今は見舞いに通っているのではない。」
「ここは洛中からは遠く、花もない今は、お通いになるほどの風情はありますまい。」
「花も青葉も
「
「つれないことを。何か、気に障ることをしてしまっただろうか。返事をくれぬのは、その為か?」
少し気落ちしたような声に思われて、また、心が揺らいでしまう。
「『糸桜』。もしや他に―――」
「遠子です。」
糸桜の樹霊の前で、『糸桜』と呼び掛けられるのは、居心地が悪い。だからつい、そのように言ってしまった。左兵衛佐は一瞬押し黙り、次いで嬉しそうに呟いた。
「遠子、か。」
失敗したかもしれない、と思った。邸に籠る女達は、ごく親しい者しか、名を知らないものだ。名を教えるということは、親しい仲となっても良いと、誤解させてもおかしくはない。秘された一族である隠部は、表の人々と交わることは許されていないというのに。
「この樹の下のみ、にございます。」
戸惑いながら、言い訳のように付け加えて、思う。
誤解だろうか。自分もまた、そうなることを望んでいるのではないだろうか。
騒めく心が現れたかのように、強めの風が吹き抜けた。笠は抑えたが、捲れた垂布が、枝垂れる枝に引っかかる。布を直そうと手を伸ばすが、枝が揺れて掴めない。まるで、樹霊が意地悪をしているようだ。
「
時が止まったような気がした。供の者が慌てた様子でいるのも、気に止まらない。
これ以上、踏み込んではならない。踏み込ませてはならない。
理性が囁くその言葉は、風に散らされる霞の如く、頼りなく、消えていくかのようだった。
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