第6話


 北山のあたりは、それほど距離が離れてはいないのに、洛中より春の訪れが遅いのか、まだひんやりとしている。大叔母の庵を訪れた時には、内裏の桜はもう盛りを過ぎていたが、この辺りはまだ美しく咲いている。

 大叔母が落飾してこの地に庵を結ぶようになって久しいが、最近病がちとのことで、時折見舞いに訪れるようになった。大叔母と言っても、父とはほとんど年の差がなく、幼い頃は兄妹のように過ごしたと聞いている。自分も、何くれとなく心を砕いてもらった覚えがあり、父が多忙の折は、こうして訪れることにしている。

 夜半に降った雨のせいか、山はしっとりしている。朝方は靄がかかっていたが、それもだいぶ晴れて、山中を見通すことも出来るようになっていた。所々、名残りのように霞んでいるのも、風情がある。

「少し、歩くか。」

 高雄ら従者を連れて、点在する僧坊を通り抜け、山道へと入る。ほとんどの木の葉は、萌え出るのを待つように芽を膨らませているが、山桜は既に赤みがかった葉を白い可憐な花に添えるように広げていた。

 ゆっくりそぞろ歩きする足が、ふと止まった。

「・・・あやかしか?」

 緩い斜面に、糸桜が美しい衣を広げるように佇んでいる。まだ若い木だが、花は山桜より紅が濃く、華やかな様子であった。その下に、紅躑躅くれないつつじうちきを纏う女人が立っていた。滝のように流れる花をよく見ようとしてか、垂布たれぬのをからげて顔を上げている。横顔が一部垣間見えるだけだが、形の良い頬と、落ちかかる黒髪の様子に目が吸い付けられる。このような所に、女人が一人でいるのは不自然であったが、不思議と惹かれるものがあった。

「若君、確認して参りましょうか?」

「いや。待て。」

 高雄を制し、ゆるりと足を向ける。草葉を踏みしだく音が聞こえたのか、女人がこちらを向いて、そっと垂布を降ろす。それが少し、残念に思えた。

 近づいてみると、まだ若いように思えるが、男ばかりを前にして恐れる様子もないのが、更に興味を引いた。

深山路みやまじに あめふる花の 匂ひたる 人もともにや 雲居くもゐにまがへて」

『山奥に、天から降るように揺れる枝垂れ桜が、見事に咲いていることだ。ここを天上と間違えて、天人も雨とともに降りてきたのだろうか。』 

「『下照る道』とは、このようなことであろうか。」

 と万葉の古歌を引き合いに付け加えると、女人は、袖を口元に充てるようにして、少し首を傾げた。そして、近くに下がる桜の枝を、衣を掲げるようにしてみせた。

「霞たち くれない匂う 桜花さくらばな あまつ袖とぞ 人の見るらむ」

『霞がかった中で、紅に咲き誇る桜が、天女の衣と見えるのでしょう。』 

 柔らかく、耳に心地よい声であった。人や否や、という問いかけは軽く流されてしまったが、垂布越しに見える口元は笑んでいるようで、もう少し話をしてみたいと思わせた。

「近くの庵に、大叔母を訪ねてきたのだが、美しい花だ。この桜を見に?」

「桜に会いに参りました。」

「このあたりの僧坊にご滞在か?」

「いえ。」

「それでは、洛中から?」

 もう少しその声が聞きたくて、重ねて尋ねてみたのだが、横合いから別の女人が近づいてくるのが見えた。よく見ると、近くの木陰には、下男も控えている。どうやら供がいたらしい。女房と思われるその女人も、垂布で表情は見えなかったが、あからさまにこちらを警戒している様子で、間に割って入りながら、先にいた女人に声をかけた。

「気安く殿方と言葉を交わしては、叱られますよ。」

 遠慮がちではあるが、声の様子からすると、こちらもまだ若い。それなりの家の者であるようだから、尤もではあるが、これでしまいとするのは名残惜しい。

「洛中まで戻るのであれば、従者を貸そう。下男一人では、心許なかろう。」

 すると、その女人は、意外な返答をした。

「大納言家の方のお手を、煩わせることではございません。僧坊ではありませんが、すぐ近くですので。」

 名乗る前に言い当てられるとは思わず、不意を突かれる心持ちとなった。名を広めることをした覚えはないのだが。

「大納言家と?」

 一目でそれと分かるのであれば、宮中に出入り出来るか、訪れたことのある家の姫君ということになるが、それにしては供も少なく不用心なことだ。

「あちらの庵の尼君は、坊門大納言ぼうもんのだいなごん殿の縁者でいらっしゃいますから。」

 大叔母の庵の方を指し示す女人は、ゆったりと微笑んでいた。

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