第5話


 白い世界。

 光でもなく、闇でもなく、ただ白だけが広がる。

 上も無く、下も無く、浮いているのか立っているのかさえ定かではない。

 奥行きの無い、それでいて果ての無い視界が、ほんのわずか揺れた。

 それは上からゆっくりと、不規則に揺れながら、一筋の軌跡を描く。

 完全に下に過ぎ去った頃、上から新たな軌跡が刻まれる。

 それはゆっくりと、初めは色も無く、透明な揺らめきを見せていたが、次第に色を持ち始め、数も増え、やがて静かに零れ落ちる雨のようになった。ひたすら広がる白に溶け込みそうなほど薄い紅色の小さな花びら。それは儚く揺れて、思い思いの軌跡を描きながら、途切れることなく舞い散る。ゆっくり手を伸ばすと、広げた手のひらに一枚だけ降りてきた。羽よりも軽く、雪よりも存在感が薄かった。

 無音だった世界に、微かな音が響いた。

 ゆっくり振り返ると、ほんのり薄紅が漂う中に、何かがいた。それは微笑み、何かを語りかけてくるようだったが、姿は空ろで、人なのか、生き物なのかすら分からなかった。ただ、ひどく懐かしいもののように思えて、じっとその声に耳を傾けていた。






 薄暗い天井に不鮮明な視界。重く縛られたように動かない体に感覚が戻り、自室で寝ていたことに気づくのに、少し時間がかかった。カーテンを通して入る光が、いつもと変わらない部屋の様子を浮かび上がらせている。枕元の時計を見ると、針はいつもと違う場所にある。

 透子は大きく伸びをしてゆっくり起き上った。どうやら大分寝過してしまったようだ。休みの日で良かった。

 階下へ降り、冷蔵庫から牛乳を取り出す。コップに注いで喉に流し込んでいると、母親の由起子がやってきた。

「あら、起きたの?」

「ん・・・」

「今日はいい天気よ。」

「そう?」

 リビングを通して見える窓はとても明るい。そういえば、寝間着に裸足のまま降りてきたが、それほど寒くは感じないということに、今更ながら気づいた。

「何時に出るの?」

「ん・・・?」

「約束があるんでしょ?」

 すぐには何のことか分からずに首を傾げてしまったが、ふっと思い出す。

「・・・・・・あ。」

 午後から友人とショッピングに行く約束をしていたのをすっかり忘れていた。どうやらまだ寝ぼけているらしい。

「やだ、忘れてたの?」

「はは・・・」

 由起子は呆れ顔だが、その通りなので笑って誤魔化すしかない。

 コップを流しに置いて、顔でも洗いに行こうとすると、今度は由起子が首を傾げた。

「これ何?」

「え?」

 透子の寝間着の肩から何かをつまみあげる。薄くて小さい紙きれのようなものだ。

「花びら・・・なんでこんなところに?」

「さあ・・・布団にでもついてたのかな・・・」

 白に近い、ほんのりと薄い桃色の小さな花びらは、桜によく似ているが、まだほとんど咲いていないし、この辺に桜の木はない。

 花びらが由起子の指から滑り落ち、柔らかに空を切りながら落ちていく。何気なくそれを目で追い、床に触れた瞬間、急に空気が変わったのに気付いて目を上げた。

 由起子の顔つきが変わっている。瞳が透明度を増し、透子の方を向いてはいるが、焦点が合っておらず、遠く別の空間を見ているかのようだ。周囲の空気が密度を増し、身じろぎすることも、息をすることさえ苦しいほどの圧迫感が伝わってくる。

(神降ろし・・・)

 直感的にそう思った。

 そこにいるのは、母であって母ではない。母の体を借りて、別の次元の何かがこの世界に触れている。そう表現するのがふさわしいものだった。

 由起子の家系は、古くは宮廷の祭祀にも関わりを持つ巫女であったと曽祖母から聞いたことがある。その血は時代の流れとともにだいぶ薄くなったが、時折神がかりの状態で奇妙な行動をしたり、預言めいたことを口走る者が現れる。曽祖母の妹がそうであったし、由起子も極たまにそうなることがあった。由起子の一族はそれを<神降ろし>と呼んでおり、今まさに、由起子がその状態だった。

 それは次第に、側にいる透子にも伝わってきて、重みを増した空気に影すらも縫いとめられたかのように身動きができず、感覚が切り離されていく。

『時を経て、再びまみえん。此度こたび逃がさば、二度とは…』

 由起子の口から漏れ出た声は、由起子のものではなかった。

 唐突に、ふっと空気が軽くなった。重石が取れたかのように、また周囲と感覚がつながる。由紀子が、不思議そうな顔で、目を瞬いた。

「・・・え~っと、何?」

「神降ろしよ。」

「え?・・・あら、やだ。しばらくなかったのにね。」

 何と言っていたのか、という質問はない。大体が、その時はよく分からない言葉なのだ。時が経って、ようやく何を意味していたのかが分かる。だから、預言のようであっても、あまり意味を成していない。実際に起きてみないと、分からないのだから。

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