第3話

 目を開けると、部屋の中は静謐と薄闇が満たしており、御帳の白い布がぼんやりと見えていた。戸の隙間から僅かに差し込む光の線が、夜が明けたことを物語る。

 頬が妙に冷えた空気を感じる。昨日までは日々緩やかになる寒さを感じていたのだが、まるで季節が逆行したかのようだ。

「高雄」

 ゆっくりと身を起こしつつ、御帳の外に控えているはずの従者を呼ぶ。短い返答の後、静かに影が滑り出した。

「お目覚めですか。」

 穏やかな声がかけられ、手馴れた動作で衣が肩に掛けられた。

「今日は少し、冷えるな。」

「はい。」

 従者が外へ合図をすると、格子戸こうしどが上げられ、薄明かりが部屋に満たされた。それと共に冷気も流れ込んでくる。続いて御簾が巻き上げられると、外の様子が明らかになった。

「ほう・・・」

 雪が降っていた。冬に積もった雪が解けてからもう大分経つ、季節はずれの春雪だ。水分の多いぼた雪は地に着くとすぐに水の膜になってしまうが、後から後から降り続くうちに次第に草や前栽せんざいの上に積み上がり、綿をかぶせたような様相を見せ始めた。

「道理で冷えるわけだな。」

 そう呟いて、簀子縁すのこえんに降り立つ。後から従者がもう一枚衣を持ってついてくる。

「風邪を召されますよ。」

「ああ・・・」

 生返事をしながら、庭をゆっくり見回す。それが、ある一点で留まった。庭の一角に、まだ若い桜の木がある。このところの暖かさで、今にも開かんばかりに蕾の膨らんでいたその木にも、雪は次々と降りてきて、枝や蕾の上に白い衣を広げていた。一見ありえないその組み合わせは、儚く、美しかった。

「・・・趣のあることだ。」

 自分の口から出たはずのその声は、なぜかひどく遠く響いて聞こえた。






 唐突に鳴り出した電子音に目を開けると、薄暗い天井が見えた。咄嗟にどこにいるのか摑みかねて、しばしボンヤリとする。部屋のどこからか聞こえていた電子音が不意に止み、ようやく自分の部屋で転寝うたたねをしていたことを思い出した。

 妙な夢を見た。自分が自分でないような違和感。経験したことではないのに、確かに記憶の一部であるような既視感。何かすっきりしないものが残る。

「・・・・・やべえ。」

 ムクリと起き上がり、慌てて身支度を整える。約束があったことを思い出したのだ。ジャケットを羽織り、携帯を拾い上げたところで動きが止まる。珍しい相手から着信が入っていた。ここ何年か連絡を取り合っていない。先ほどの電子音はこれだったか。取り敢えず、ポケットに携帯を放り込み、家を出る。今日は遅刻決定だ。

 案の定、集合場所には不機嫌になったメンバーがいた。特にドラムとボーカルは最高に機嫌が悪い。遅刻者がもう一人いたらしい。やる気があるのか、と盛んに怒鳴り散らしていた。そんな状態では練習もうまくいくはずがなく、喧嘩別れのように解散となった。この調子では、当分言い出せそうにない。

 メンバーが苛立っている理由は分かっていた。皆、焦っている。脇目も振らず、ひたすらに夢を追う時期は過ぎてしまった。メンバーの中に、温度差が出来ている。芽の出ないままに数年が過ぎ、日々の生活と、軍資金を稼ぐためのバイトに追われ、次第に疲れて気力を失う者と、意固地に突き進もうとする者とに分かれて、衝突するようになっていた。いずれ、チームを離れる者が出るのは必至だ。

『お前、まだバンド続けるのか?』

 そう他人ひとに聞かれて、とっさに答えられなかった。あれほどあった熱量が、自分の中で弱まっていることに気付いたのは、いつだったか。

 何気なく手を突っ込んだポケットに硬い感触を感じ、携帯を入れていたことを思い出して取り出してみた。画面には、着信の表示がある。そういえば、夕方にかかってきていたのをそのままにしていた。

 高校の頃は良くつるんでいたが、東京に出てきて暫くした頃からだんだん疎遠になり、ここ数年はどこでどうしているのか、全く知らなかったし、気にしてもいなかった。お互い、よく記録を消さずに取っておいたものだ。ずぼらなのが幸いしたか。


 暫くの間ためらって、ボタンを押した。

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