本屋迷宮

永庵呂季

本屋迷宮

「この本屋では、自分という存在を証明できると聞いたんですが、それってどういう意味ですか?」


 本屋迷宮。


 奇妙な店名。人気のない路地裏にひっそりと佇む小さな古本屋。


 幾千と積まれた古本の黴びた匂い。さながら地下迷宮のレンガ壁のようだ。


 古書の迷宮をさまよい歩き、やっとのことで店のカウンターにたどり着いた私は、奥に座っている中年の男性に声をかけ、質問したところだった。


「自分の存在証明……。どこでそんな話をお聞きになったのですか? お嬢ちゃん」

「お嬢ちゃんじゃありません」と私は少しイラついて応えた。「上城かみしろユカと言います。子供扱いはやめてください」


「これは失礼しました。上城ユカさん」と男は能面のおきなのように硬直している笑顔を崩さずに言った。「私は店主の佐藤と申します。で、どちらからお聞きになったのですか?」


「学校の……新聞部の生徒からです」と私は言った。


 薄気味悪い笑みを浮かべている佐藤という男は「なるほど。彼の知り合いですか」と頷きながら言った。


「彼? 私は男とは言っていませんよ」


「分かりますよ。あなたと同じ制服を着て、新聞部に所属していて、この店を知っている人物を、私はひとりしか知りませんから。小野寺ユウジくん。この店の常連です」


 ……悔しいけど、正解。


「それにしても、なかなか難しい質問をする人だ」と佐藤は困ったように額を指で掻く。「人は、自分が存在することをどうやって知ることができるのか? どうやったらそれを証明できるのか? 難しい話ですねえ。どうしてそんなことを知りたいと思ったんですか?」


 思わず言葉が詰まる。

 この薄気味悪い男に、真面目に話していいことなのだろうか。

 もしかしたら、ただ変人扱いされて追い返されてしまうだけかもしれない。


 ……だけど、他にこの気持ちをすっきりさせる術を知らない。


 だからこそ、わらをも掴む気持ちで、こんな怪しい古書店にまで足を運んできたのだ。


 ……いまさら尻込みなんてしていられない。


「……正直に言います」と私は慎重に相手の表情を確認しながら続けた。「子供の頃からずっと思っていたことです。……本当に、私は、この世界の住人なのかな……って」


「ほう……」と佐藤は片方の目だけを少し見開いた。


「現実感がときどき薄れるんです。夜の繁華街の狂ったような明るさや、いつでもどこでも、誰とでも繋がれるネットワークの存在を意識したときや……それから――」


「自分が何者かと考えるとき……ですかな」


 言葉に詰まったあとを引き継ぐように、佐藤が言った。


「……そうです」


 ……悔しいけど、正解。


「なるほど、なるほど」

 佐藤はそう言いながら、古ぼけた木製のカウンターから出てくると、迷宮の壁となっている本の山を眺めはじめた。


「ユカさん、ひとつだけ質問があります」


「なんですか?」


「あなたは、この本屋に入ってからカウンターにたどり着くまでに、迷路のような通路を歩いてきましたか?」


「はい。そうですけど」


 何を言っているのかわからなかった。他に選択肢なんてない通路だった。お店の入口から、カウンターまで、ずっと本の壁に挟まれたままだし、それだけの本を積み上げたのは店主であるこの佐藤という男ではないのだろうか。


「離人症。ご存知ですか?」

 佐藤は古本の山から年季の入った革表紙の本を二冊、抜き出しながら言った。


「りじんしょう?」と私は繰り返す。「聞いたこともありません」


 佐藤は立派な革表紙の大著を抱えて古びたカウンターに戻ると、その机に本を並べて置いた。


 一冊は『精神病理学的研究』と書かれていた。著者はエミール・クレペリン。二冊目のタイトルは『存在と無との境界』。ジャン=ポール・サルトルと書かれている。サルトルという名前は聞いたことがあるような、ないような気がした。


「まあ簡単に言うと、離人症というのはですねえ」と佐藤が口を開く。「自分自身や周囲の環境が現実的でない、あるいは現実感を喪失させて、異世界への渇望を抱くような心理症状のことなんですね」


「あははっ」

 思わず笑ってしまった。

「それってなに? つまり私が本格的に病的な中二病を患っちゃってるってことですか? それウケます。確かに自分探しにうってつけの店ですね。私のこの気持ちって、つまり病気ってことなんですよね」


 ……それはそうだ。分かっていたことだ。誰に話したところで、こんな気持ちを理解してもらえるはずがない。新聞部のオカルト記事を担当しているからといって、あの男の言うことを真に受けすぎたんだ。


 目の前に差し出されている読む気が失せるほどに分厚い本。

 精神病理学的研究? そんな研究しなくたって、自分が普通じゃないことくらい自覚してるわよ。


「……はは……ホント嫌になっちゃうな。何してんだろ私」

 あまりの悔しさに涙が込み上げてくる。


「この二冊の大著が指し示す通り、ユカさんの感じている現実感の喪失は、まあ言ってしまえば心の働きがずれてしまっている状態ということになります――」

 佐藤が続ける。

「――というのがまあ、、というわけですね」


「……こちらの世界?」


「そうです。ユカさんが言うところの現実的ではない現実の世界」


「でもそれは、心の病気だって――」


「ユカさんが感じているだけなら、確かにそうでしょうね」と佐藤は二冊の本を重ねてカウンターの下へと仕舞ってしまった。「ですが、ユカさん。あなたはこの本屋の迷宮を抜けてきたとおっしゃいましたね」


「え? は、はい。だって、それ以外に通路なんてなかったですよ」


「通路は最初からふたつあるんです」と佐藤は言った。「ひとつは、この世界が自分の世界だと信じて疑わない、普通の人たちのためにある通路です。彼らにとって、この古本屋は、マンガもライトノベルもエロ本もない退屈な古ぼけた本屋にしか見えません」


「……はい?」


 佐藤の言っていることが分からない。さっきから分からないことだらけだ。


「そしてもうひとつの通路は、あなたのように異世界の存在を確信しているしている人にだけ見える、迷宮のように広い古書店の通路です」


 ……この人、まじ? 本気で言ってるの?


「言うなれば本屋迷宮に迷い込むことができる方こそ、異世界へ行くことのできる証となるのです。そしてそれこそ、あなたが間違いなくこの世界に存在している証明であると言えるでしょう」


 ちょっと、待って……と思った。


 確かに変なことを言いだしたのは私だ。現実の世界を受け入れられないし、別の世界があるということを根拠もなく信じ込んでいる。うん。危ないよ。確かに病気と言われても仕方がないよ。


 でも、なんだろう? なんで他人に真面目に言われると、ちょっと自分でブレーキをかけちゃうのだろう?


「自分の言うことを棚に上げて、私の言うことをまるっきり信じていませんね、ユカさん」


 ……悔しいけど、正解。


「少し冷静に振り返ってみてください。店に入ってきて、このカウンターにたどり着くまでに、どれくらい歩きましたか?」


「……一〇分くらい……」


「一〇分歩くって、一キロメートル近く歩ける時間ですよ。それだけの広さが、この古ぼけた一軒家の店にあると思いますか?」


「……ない……と思う」


「そういうことです。あなたには異世界へ行く資格がある。だから迷宮を通ってこれた。心の病ではありません。何も心配することはありませんよ」


 ……胡散臭い。なんだろう、この怪しさは。なんだかこのまま変な宗教団体に勧誘されちゃいそうな気がするんですけど。


「異世界に行くって、それいつの話ですか? その異世界って、なんかの団体に入信して天寿を全うしないと辿り着けない天国とかってオチじゃないんですか?」


「まだ信じないんですね。疑り深い」と佐藤が溜め息を漏らす。


「当たり前じゃない。迷宮なんて錯覚でしょ。私、方向音痴だし。それだけであなたを信じることはできません」


「それはね、ユカさん」と佐藤がカウンターに手をついて、神妙な顔つきになる。「私が異世界帰りの人間だからですよ」


「……いやいやいや」


「信じてもらえないのは承知しています」と佐藤は再び笑顔に戻る。「ちなみにさっき、ユカさんは『いつ行くのか?』とお聞きになりましたね。ずばりお答えすると、本日このお店を出た直後です」


 ……だめだ。この人の言うことは信じてはいけない。


 明らかに言動が危ない。私以上の中二病患者だ。


 だが、なぜだろう。嘘を言っている感じがしない。


「なぜ? なんでそんなことを平然と言えるの? 私が異世界へ行く? なんでそんなことを本屋の店主が知っているの?」


「異世界から戻ってくるとき、私はひとつの能力をこの現実世界へ持ち越すことを許されました。その能力は……ずばり『予言』です」


「予言……」と私は辟易する。筋金入りだ、この人。


「はい」と佐藤は笑顔のまま続ける。「ですから、実のところユカさんが本日ご来店することも、私とこのように押し問答をすることも、あらかじめ知っていました。もちろん、この先のユカさんの行動も含めて、ですが」


「本当かしら」と私は強気に言った。「もしそれが本当なら私がいま聞きたいことが何なのか、とうぜん予言しているんでしょうね。私は――」


「異世界に行かなくて済む方法が知りたい」と佐藤が先んじて言う。


 思わず息が止まる。一語一句、紛うことなく、私が言おうとしていたセリフだった。


「……分かった」と私は観念した。「悔しいけど正解よ」


「それでも、まだ選択肢は残されていますよ」


 佐藤はそう言うと、先ほど仕舞った二冊の分厚い本を再びカウンターへ積み上げた。


「この本を差し上げます。お代はいりません」


「はい?」


「この二冊の本を持って帰る。それだけです。それで、ユカさんは異世界へ行かずにこのまま現実世界にとどまることができますよ」


「なんで? どうして本を持つだけで運命が変わっちゃうわけ?」


「運命なんて、大した道筋じゃありませんよ」と佐藤は言う。「些細なことでルートは分岐します。だって、今日ユカさんがこの本屋に来なければ、そもそもこんな話になることだってなかったはずですよ。違いますか?」


「……それは、まあ、そうかもしれないけど……」


「行動の意味が重要なのではありません。行動によって変動する因果律のランダム性が重要なのです」


「……言ってることが分かりません」


「この世界の本には載っていませんからね」と佐藤が言った。「どうしますか? 選択はお任せしますよ」


 私は佐藤を睨む。


「佐藤さん、あなたにはもう結果がわかっているんでしょ?」


「もちろん」と佐藤は笑顔で言う。「ですが、そのやりとりを予言どおりに私が遂行してこその結果でもあります」


「ややこしい話ね」


「あなたが異世界で英雄になることに比べれば、それほど難しいことではありません」


「それも予言なんですか?」


「予言どおりに事が運べば、そうなりますね」


 私は佐藤を見つめる。

 たぶん、私は笑っているのだろう。

 不敵に、挑戦的に。


 私以上にイッちゃってる中年男に、嫌悪と好意をないまぜにした微笑を浮かべているに違いない。


 大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。


 私は姿勢を正して、礼儀正しくお辞儀をすると、本を受け取らずに踵を返した。


「怖がることはありません。痛みすら感じることはないでしょう」


 それが佐藤の最後の言葉だった。


 異世界への入り口。

 佐藤が言うには、それは本屋を出た直後らしい。


 つまり出口が入り口となる。


 よくわからない。そんな都合の良い展開が本当に起こりうるのだろうか。


 たぶん騙されている。からかわれているのだ。


 たっぷり一〇分かけて迷宮を戻っていく。

 本屋の出口へたどり着き、建てつけの悪い引き戸を両手で力任せに開ける。


 腹の底まで響くクラクション。


 巨大なトラックが『本屋迷宮』へ向かって猛スピードで突進してきた。


 逃げる? 無理でしょ。身体動かないし。


 恐怖はなかった。


 それ以上、何かを考える暇もなく、凶暴な紫色の車体が視界を覆う。


 ……なるほど。佐藤の『予言』通り、確かに痛みなんて感じない。


 紫色を意識するよりも早く、世界は真っ白に灼けていった。


 そして――


 ズレていると感じていた意識と魂の歯車が、カチリと音を立てて噛み合ったのだけは確信できた。

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本屋迷宮 永庵呂季 @eian_roki

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