記憶屋書店
夜空
失恋を売る男
──その書店は、記憶を本にして売っていた。
人のあらゆるものが切り売りできる時代は、非人道的な行為すら厭わないほどに荒れ果てた治安を生み出すに至るが、ついには記憶すらも値札をかけられることになろうとは、誰がそんな未来を思い描いただろうか。
……いや、実際は記憶を売るのは、似た様な事は確かにあった。歴史書や実録、実話を語る人間は、確かに記憶を売っていたと言っても過言ではない。
しかし、それは共有であって譲渡ではなく、それはずっと良心的で道徳的な形。
他人の人生を羨んだ人間が行きついた、まがい物の体験談への欲が、この切り売りの時代の果てである。
……ああそう、ぴったりの言葉が一つ。
『隣の芝生は青く見える』、と。
つまりはそんな時代。もう常識となった記憶屋書店で。
また一人の人間が、記憶を売りにやってきた。
「いらっしゃい。今日は何をお探しで?」
「いえ今日は……僕の、失恋の記憶を……」
若い男性。
男は心底の絶望を抱えて、消え入るような声でそう言った。
声の濁りは恥ずかしさからくるものではなく、言葉通り失恋したらしい気の落ちよう。事実としての悲しみ、現実。その真実味が、口にしても自分の中で咀嚼しきれていない事を示している。
「おやおやそれは。ええ分かりますとも、お辛いでしょうね……。
いいでしょう。個人情報は厳重に秘匿したうえで、その悲劇を買い取らせていただきます」
そう話すのは、男よりま少し年上の店員。
あくまで事務的な言葉は態度にも表れ、共感はほどほどに、テキパキと段取りを進めていった。
「ありがとう」
「それにしてもお客様、ツキには見放されていなかったことだけはお伝えさせていただきますよ。良い事は良い事とお教えするのが私の主義でございますから。
ええ、いつもなら幾ばくもお支払いできる価値を付けられないのですが、ここ最近では失恋の物語に需要が出てきたのですよ。そうですとも、空前の失恋ブームです」
「はは。それは嬉しいのかそうじゃないのか……。価値があるというのなら、僕の失恋を少なからず必要としている人がいるということですか。──うん……けど、そうだとすると、お金にはなるけれど、決して実にはならない時間だったと言われているようで複雑ですね……。
ああ! ところで。悲劇の需要とは一体それはどうしてでしょうか?」
不思議そうに男性は尋ねる。
店員の男はしかし未だ事務的な笑顔を貼り付け、その疑問に答えた。
「それはですねお客様。つまりは恋愛に飽きたからでございます。
もう一昔前になりますが、その時には恋の記憶を求めるお客様がそれはもう大勢いらっしゃったのです。しかしそうですね、もうそういう歳でもなくなってしまったんでしょう。あるいは、現実に愛を育む人を見つけられたのでしょうが、つまりはそういうことでございます」
「そうですか。まあただ、僕の場合慰めるには同じく恋愛が一番でしょう。困ったことに、何の前触れもなく突然に別れを告げられてしまいましてね、理由は決して答えてくれなかったんですよ。だからどうにもこのままでは、恋愛にトラウマを覚えてしまいそうなのです。
……じゃあこれ、いいですか? まだ僕には恋愛への執着があるみたいですから」
「ははは、懲りないのですね。それはしかし結構なことでございます。いいですとも、『高校・2012年の恋』こちら実は、あなたへおすすめの記憶となっております。きっと最高の体験をお約束いたしますよ」
「おや、そうですか。それは楽しみです」
言って、男は懐から取り出した長財布から、提示された通りの金額を現金一括で支払った。
ちゃりんと、レジの機械からそんな下品で、それでいて高貴の本質を突いたような音が書店に鳴り響く。
「はい、ちょうどお預かりいたします。
……では、またのご利用をお待ちしております。お客様……」
ありがとうございますと、丁寧にお礼の言葉を述べたのち、男は小さく頭を下げて、その本屋から出ていった。
店員はその背中を、町の中の人混みに紛れ、やがてそれがもう見えなくなってしまうまで、ずっと……。
──ずっと、悟られぬよう憐れむような眼で、見送った。
「それにしても難儀なお方だ。繰り返しずっと、あなたは本の記憶の中で同じ女性との恋愛をし続けるとは……。一途で、それでいて報われない。くるくるくると、いつまでも売って買っての繰り返しですか。
さて。彼の恋人が亡くなった事実を受け入れる日はいつになるのやら……」
今日も今日とて、その書店では記憶を売っていた。
記憶屋書店 夜空 @yozoratuki1170
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