竜の書

Aiinegruth

第1話 竜の書

 深夜の国道9号線をママチャリが爆走する。田舎かくあるべしの疎らな街灯の下を駆け抜けながら、柳戸一依やなぎどひとよは後ろを振り返る。

「マジか、マジか、マジか……」

 淡い光に照らされて彼女に迫るのは、無数の線を内包して絶えず模様を変える高さ一メートルの正二十面体だった、右半身を欠損してたくさんの目玉の詰まった腹の洞をさらす車ほどの大きさのセミだった、あるいは五つある穴すべてから首を出した小さな亀だった。一依ひとよはしばしばこういった怪物に出会う。一人で買い物に向かうときも、今日のように娘と夜の散歩に出かけるときも。しかし、こうやってずらずらと並んで付いてくるのは初めてだった。日の暮れた道路を賑やかす総勢数十体の怪物の行列。甲高い奇声と、肉の擦れる異音と、アスファルトを揺らす振動をひしひし感じながら、その先頭を突っ走る。

「ママ、ハンバーグ、ハンバーグまだ」

「そう、そうだね」

 後方のかごに乗った五歳の娘が夕食の催促をする。そうだ、こんなことをしている場合ではない。年がら年中怪物とこんにちわしている一依ひとよだったが、呪われたり、怪我をしたりしたことはない。怪物たちは、いつも彼女など気にしない様子で、やがて何処かへ霧消するのだ。今回もきっとそうに違いない。足が限界に近いなかで左斜め前、道路端に漕ぎ出すと、ブレーキをかけて急停止する。

 ――バゴォンと、衝撃音が背後から連続的に響いた。

「――え?」

 唖然とするしかない。普段なら横をすり抜けていく怪物は、全て止まったママチャリにつっかえて玉突き事故を起こしていた。腹から目玉をこぼすセミにぶつかられた正二十面体は、一瞬ふらつくと、一依ひとよの眼前に滑り込んできて赤く変色し、くるくる回った。以心伝心だ。これ、怒ってる。

「言ってることわからないと思いますけど、すごくごめんなさい!」

 ママチャリから降りて、言葉を発した瞬間、周囲の景色が変わった。

 

 竜の書店

 ――気鋭の快作から古典の名作まで、幅広い品揃え――

 

 天井からの垂れ幕は読める文字だった。巨大な洋館の吹き抜けホール。宙に浮くいくつもの灯篭に照らされながら、八方に書架が拡がった建造物のなかに、一依ひとよは立っていた。

「さっきは失礼、一番乗りさん。入り口がこんなに近くにあるとは。小さな痕跡を探さなければならなかったのに、浮足立ってみんな気付かなかった。礼をいうよ、ありがとう」

「あ、いえ、こっちこそ、急に止まってごめんなさい……」

 隣に揺れていた正二十面体は、球に形を変えると、青色に明滅して、ゴロゴロとその場を去った。ほかの怪物たちも、それぞれ書架に向かって行き、あれこれ話している。言葉通じるんだ……と、思う間もなく、次なる声が頭上から降り注ぐ。

「本日は修理にいらっしゃいましたね」

 ドスンという着地音。母と娘の前に降りてきたのは、全長二〇メートルほどの竜だった。二対の翼があり、赤黒い鱗に鋭い爪の光る脚が四本生えている。修理? 何の? 圧倒的な神気に押されるまま疑問を飲み込んだ一依ひとよは、ママチャリに乗ったままの娘が一冊の本を抱えているのに気が付いた。

「あ、こら瑠子るこ。それお家から持ってきちゃったの?」

「うん、あったかいから」

 柳戸家やなぎどけには、家宝がある。竜の書という文庫程度の大きさをした二つ折りの画用紙だ。仏壇の蝋燭の近くに保管するようにというのが代々の習わしで、そのためにどこか生暖かい。書とはいうものの、文字化けしたような単語がページのない見開きにばらばらと示されているだけだ。その黒い列が、夜中に少し動き出すのだから恐ろしい。一依ひとよが苦手だったそのを、同じ短い黒髪を揺らす娘はお気に入りらしい。

「すべての書は世界を渡しますが、なかでも竜の書は一級品です。線球相せんきゅうそうさんも、肚観はらみせさんも、五念門甲羅ごねんもんごうらさんも、あなたがこれを持っていなければ出会うことがなかった世界の方々でしょう」

 娘に向かって言う竜の姿をみて、一依は先ほどの怪物たちを想起し、いや、怪物は失礼か、と首を振った。続く説明によれば、竜の書は熱によって生き、何百年かに一回は正しい方法で加熱しないと死んでしまうらしい。辛うじて文字が動いている娘の持つそれは、ほぼ瀕死の状態で担ぎ込まれたのだという。

「毎回申し上げているのですが、世代が頻繁に代わってしまいますから、人間に購入いただいたものが修理のために戻ってくるのはめったにないことなのです。五〇〇年間、大切に熱に当てられて生きている子も」

 巨影は嬉しそうに一依ひとよにそう笑いかけると、何か不可思議な力でその一冊を浮かせた。

「直してくれるんだって」

 一依ひとよがかごから抱き上げると、盗られたと思って手で空を搔いていた瑠子るこは大人しくなった。少しの間をおいて、垂れ幕の文字列が書き換わる。


 素焼き開始します。お客様方は鱗房りんぼうまで避難ください。


 見上げると、高い天井の奥に透明な鱗の幕が張っていく。書架から伸びた木の蔓に従ってほかの客が上るなか、もみくちゃにされそうで足を踏み出すタイミングを失った一依ひとよは、大きな羽音を聞く。肚観はらみせせという名前のセミが、その抉れた腹部に足で捕まえた母娘おやことママチャリを仕舞った。二人の身体を覆う浮遊感。セミは、左側だけの翅でも、どういうわけか床を離れることができるらしい。

「あんたたち、柳戸為治やなぎどためはるの子孫だろう」

「そうですが、何故それを?」

「人間はあまり成長しないから分かりやすいよ。私がきみの手のひらに乗るくらいのころ、大怪我していたところを助けてもらったのさ」

 腰まで満ちた大小さまざまな目玉をぽんぽん投げて遊ぶ瑠子るこをいさめながら、自分たちのいる空洞に響く嬉しそうなセミの声を聞く。不思議と、何も怖くなかった。どんどんと上がる高度。破れた虫の腹に腰かけて飛ぶ二人は、眼下に透明で力強い凹凸が揺らめいたのを見た。通り抜けて、幕の上まで来たらしい。

「ほら、素焼きだ。目を細めて観るんだよ」

 肚観はらみせせに言われて視線を向けると、それは始まった。灯篭が消された本屋のホール全体を、青白く波打つエネルギーの軌跡が走り抜け、一か所に収束していく。八角形をした床の中央に大きくのけ反った、赤黒いドラゴンの口元に。はっと、一依ひとよが息を呑んだ途端、景色が瞬く。ノイズに塗れた視界に迸ったのは、青白い超高温の熱閃だった。喉から万物を熔かしそうな火炎をぶちまけたままの竜は、ぶわっと浮き上がってきりもみ回転すると、八面の書架全てを爆音と共に焼き払った。摂氏一万度の熱波。バチバチと散るもやがかった光彩。鉄筋のビルをも蒸発させそうな一撃に、一依ひとよも、瑠子るこも、魅入っていた。

 しばらくすると衝撃を抑えて揺らめていた鱗の幕が消え、一冊の本が一依ひとよの手元に飛び込んでくる。もはや二つ折りの画用紙ではない。気品のある木目のような表紙に『竜の書六巻/われわれはともにあゆむ Codex Drăcōnis Ⅵ Audeamus』と表題が記されている。興奮した様子の瑠子るこによって開かれた書籍には、数百ページの厚さに渡って、異なる世界のわくわくする冒険譚が描かれていた。見下ろせば、書架の本たちも一気に元気を取り戻したようで、背表紙が生き生きと輝いて見える。

 気が付けば、ほかの客はほとんど本を買って帰ってしまっていた。幾何学図形もセミも亀も、何処かに消えている。そろそろ帰らなければ。一依ひとよは、ページをめくるままの瑠子るこをママチャリに乗せると、店主に声をかける。柔和な笑顔のまま、竜は言葉を返してくる。

「修理は購入時の契約にありますから、お代は不要ですよ」 

「いえ、今日はとても良い日でした。どこかできっとお返しをしますよ。娘も見ていますので。ねー」

「ねー」


 深夜の国道9号線をママチャリが爆走する。足の疲れも心地良い。夜風も、月影も、ドキドキと高鳴ったままの心臓に色彩を添えている。

 その夜、一つ余計に作って、仏壇に――竜の書の隣に――供えておいたハンバーグが消えてなくなったのを見て、翌朝の一依ひとよはちっとも怖く思わなかった。以下の一文が、開かれたままのページに記されていたことも。

 


 非常に優れた味でした。また、別の作品をお求めなら、ぜひ当店へどうぞ。

 全ての書は、渡されるべき世界の皆様を歓迎いたします。

 そういって、灼界龍しゃっかいりゅうゼルクオグトリュードは一礼した。


 

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