竜の書
Aiinegruth
第1話 竜の書
深夜の国道9号線をママチャリが爆走する。田舎かくあるべしの疎らな街灯の下を駆け抜けながら、
「マジか、マジか、マジか……」
淡い光に照らされて彼女に迫るのは、無数の線を内包して絶えず模様を変える高さ一メートルの正二十面体だった、右半身を欠損してたくさんの目玉の詰まった腹の洞をさらす車ほどの大きさのセミだった、あるいは五つある穴すべてから首を出した小さな亀だった。
「ママ、ハンバーグ、ハンバーグまだ」
「そう、そうだね」
後方のかごに乗った五歳の娘が夕食の催促をする。そうだ、こんなことをしている場合ではない。年がら年中怪物とこんにちわしている
――バゴォンと、衝撃音が背後から連続的に響いた。
「――え?」
唖然とするしかない。普段なら横をすり抜けていく怪物は、全て止まったママチャリにつっかえて玉突き事故を起こしていた。腹から目玉をこぼすセミにぶつかられた正二十面体は、一瞬ふらつくと、
「言ってることわからないと思いますけど、すごくごめんなさい!」
ママチャリから降りて、言葉を発した瞬間、周囲の景色が変わった。
竜の書店
――気鋭の快作から古典の名作まで、幅広い品揃え――
天井からの垂れ幕は読める文字だった。巨大な洋館の吹き抜けホール。宙に浮くいくつもの灯篭に照らされながら、八方に書架が拡がった建造物のなかに、
「さっきは失礼、一番乗りさん。入り口がこんなに近くにあるとは。小さな痕跡を探さなければならなかったのに、浮足立ってみんな気付かなかった。礼をいうよ、ありがとう」
「あ、いえ、こっちこそ、急に止まってごめんなさい……」
隣に揺れていた正二十面体は、球に形を変えると、青色に明滅して、ゴロゴロとその場を去った。ほかの怪物たちも、それぞれ書架に向かって行き、あれこれ話している。言葉通じるんだ……と、思う間もなく、次なる声が頭上から降り注ぐ。
「本日は修理にいらっしゃいましたね」
ドスンという着地音。母と娘の前に降りてきたのは、全長二〇メートルほどの竜だった。二対の翼があり、赤黒い鱗に鋭い爪の光る脚が四本生えている。修理? 何の? 圧倒的な神気に押されるまま疑問を飲み込んだ
「あ、こら
「うん、あったかいから」
「すべての書は世界を渡しますが、なかでも竜の書は一級品です。
娘に向かって言う竜の姿をみて、一依は先ほどの怪物たちを想起し、いや、怪物は失礼か、と首を振った。続く説明によれば、竜の書は熱によって生き、何百年かに一回は正しい方法で加熱しないと死んでしまうらしい。辛うじて文字が動いている娘の持つそれは、ほぼ瀕死の状態で担ぎ込まれたのだという。
「毎回申し上げているのですが、世代が頻繁に代わってしまいますから、人間に購入いただいたものが修理のために戻ってくるのはめったにないことなのです。五〇〇年間、大切に熱に当てられて生きている子も」
巨影は嬉しそうに
「直してくれるんだって」
素焼き開始します。お客様方は
見上げると、高い天井の奥に透明な鱗の幕が張っていく。書架から伸びた木の蔓に従ってほかの客が上るなか、もみくちゃにされそうで足を踏み出すタイミングを失った
「あんたたち、
「そうですが、何故それを?」
「人間はあまり成長しないから分かりやすいよ。私がきみの手のひらに乗るくらいのころ、大怪我していたところを助けてもらったのさ」
腰まで満ちた大小さまざまな目玉をぽんぽん投げて遊ぶ
「ほら、素焼きだ。目を細めて観るんだよ」
しばらくすると衝撃を抑えて揺らめていた鱗の幕が消え、一冊の本が
気が付けば、ほかの客はほとんど本を買って帰ってしまっていた。幾何学図形もセミも亀も、何処かに消えている。そろそろ帰らなければ。
「修理は購入時の契約にありますから、お代は不要ですよ」
「いえ、今日はとても良い日でした。どこかできっとお返しをしますよ。娘も見ていますので。ねー」
「ねー」
深夜の国道9号線をママチャリが爆走する。足の疲れも心地良い。夜風も、月影も、ドキドキと高鳴ったままの心臓に色彩を添えている。
その夜、一つ余計に作って、仏壇に――竜の書の隣に――供えておいたハンバーグが消えてなくなったのを見て、翌朝の
非常に優れた味でした。また、別の作品をお求めなら、ぜひ当店へどうぞ。
全ての書は、渡されるべき世界の皆様を歓迎いたします。
そういって、
竜の書 Aiinegruth @Aiinegruth
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