第2話 狂い笑う子供

「……ヒャヒャヒャッ、手に入れた、やっと手に入れた! アヒャヒャヒャヒャヒャッ!」


 耳障りな笑い声で少年は意識を取り戻した。

 ここは……。

 少年は異様な気怠さを感じながらも無意識に辺りを見回した。


 どうやら少年がいるのは先程の執務室のようだった。

 少年はソファの上に座らされていた。

 あの謎の人形が腰掛けていたソファだ。


 あの人形に笑いかけられて……それからどうなったんだっけ。

 こうして意識があるってことはどうやら無事だったみたいだけど……。


 そんなことを少年はぼんやりと考えていたが、ふと違和感を覚えた。

 ここ、本当にさっきと同じ部屋か?

 見たところ同じ部屋の中のはずなのに、どういうわけか随分と室内が広く感じられる。

 もう少し考えれば違和感の原因が掴めそうだったが、目覚めたばかりのためか頭がうまく動かない。


「アヒャッ、体だ、もう俺のものなんだ! これでようやく自由だ、これでやっとここから出られるんだ! アヒャヒャヒャッ!」


 少年の耳に再び笑い声が飛び込んで来た。

 そういえばあの耳障りな声で目を覚ましたのだ。


 一体誰だよ、さっきから……。

 少年がそちらへ顔を向けると、壁に掛けられた鏡の前に男が一人立っていた。

 男、というか子供だった。

 こちらに背を向けていて顔は見えないが、背丈から考えて少年と同じくらいの年に見える。

 ボサボサの黒髪に継ぎ当てだらけのボロい服。肌も汚れているようだ。

 恐らく浮浪児だろう。

 オレ以外にもこの館に忍び込んでいた奴がいたのか、と少年は意外に思った。


 ただ、その子供は様子がおかしかった。

 どうやらこちらには気付いていないらしい。鏡に映った自分の姿を食い入るように見つめている。

 そして時折狂ったように笑い声を張り上げ、飛んだり跳ねたり、自分の顔を殴りつけたりと意味の分からない行動を繰り返している。


 一体何なんだ、こいつは。

 意識がはっきりするにつれて少年はその子供に対し気味の悪さを覚え始めた。

 だがやがてふと、あることに気付いた。

 それと同時に少年はそれまでの嫌悪感など比べられないほど背筋がゾッと冷たくなるのを感じた。


 子供の姿を一目見たときから、どこか見覚えがあるような気はしていたのだ。

 それでいてすぐにはそれが誰かわからなかった。

 当然だろう。

 目の前で奇声を上げているその子供は、こんな形では絶対に少年の視界には入らないはずの人間だったのだから。

 目を見開き、震える声で少年は言った。


「な……なんでオレがいるんだ?」


 その声に反応して子供がピタリと動きを止めた。

 それからゆっくりと振り返った。


 その顔は紛れもなく少年自身の顔だった。


 顔だけではない。姿形も着ているものも全て、少年とすっかり同じ。

 少年の顔をして少年の身体に少年の服を着た子供がそこに立っていた。

 その顔は無表情で何を考えているのかわからない。


 少年は狼狽えた。

 何が起きているのかわからなかった。

 ただ、少年はこの時になってようやく自分の今の身体がおかしくなっていることを自覚し始めた。


 少年はいつの間にか色褪せた赤いドレスを着せられていた。

 ドレスから出ている手足は驚くほど白く、細く、そして固い。

 まるで作り物のようだ。

 それにさっき声を出したが、その声は本来の自分の声とは似ても似つかなかった。

 声変わりする前のような声。まるで女のような声だった。


 そして、少年は現在ソファの上に腰掛けている。

 あの赤いドレスを着た人形が座っていたはずのソファに……。


 数々の手掛かりが少年の思考をある結論へと導こうとしていた。

 非現実的で、絶対にありえないはずの結論。

 ひょっとして、今のオレの身体は――。


「ひ、ひいいぃぃぃっ!」


 突然の叫び声で少年はハッと我に返った。

 見れば、子供が恐怖に顔を歪めながら少年を見つめていた。

 背中を壁に擦り付けるように移動し始めたかと思うと、半ば転がるように慌てた様子で扉を開けて部屋から駆け出して行った。


「ま、待て!」


 どうしてあいつのほうが逃げるんだ?

 、あいつがやったんじゃないのか?


 少年は反射的に後を追いかけようとした。

 状況がまるで飲み込めなかったが、とにかく今はあの子供から話を聞かなければならない。

 だがソファから飛び降りようとした少年は足がもつれて顔面をしたたか床に打ち付けた。

 身体がまともに動かない。歩くことすらままならない。

 どうにか部屋から出たとき、子供は既に廊下の遥か先へ行ってしまっていた。


「くそっ!」


 もう追い付けそうにないと思いつつそれでも必死に後を追う。

 子供との距離は縮まるどころかどんどん引き離された。

 子供は廊下を抜けてエントランスに辿り着くと、そのまま玄関から外へ出て行ってしまった。

 それから間もなく少年もエントランスに着いた。

 玄関を開けると走っていく子供の背中がかろうじて目に入った。


「逃がすか!」


 少年は外へ出ようとした。

 ところが、途端にボヨンと何かにぶつかって少年は跳ね飛ばされた。

 いてて……と起き上がりながら調べると、玄関の扉は開けられるもののその先に見えない膜のようなものが張られていて外に出られない。


「な、なんだよこれ……」


 少年は戸惑いながらボヨンボヨンする透明な壁を叩いた。

 するとエントランスに突然声が響いた。


『結界に反応があったから様子を見てみれば……セシル、あなた何してるの?』


 女の声だった。

 しかし声の主の姿はどこにも見えない。

 少年は辺りを見回しながら叫んだ。


「誰だ! ど、どこにいる!」

『なによその反応。……ああ、なるほど。ちょっとそこで待ってなさい』


 女は一人納得した様子で言った。

 その声の後、少しの間を置いてエントランスの中央の空間が水面のようにうねり始めた。

 うねりはどんどん激しくなり、やがて破けて真っ黒な穴が開く。

 そしてその中から女が一人現れた。


 二〇前後くらいの若い女だった。

 長い銀髪に赤い瞳。口元に微かな笑みを浮かべているが、ほとんど無表情に近い。

 胸元が大きく開いた黒いドレスに身を包み、頭にはシスターが付けているような黒い頭巾を被っている。

 そして左手には先端に巨大な赤い宝石が嵌め込まれた杖が握られていた。


 魔女。あるいは吸血鬼。

 女の姿を見た少年の脳裏にそんな言葉が浮かんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る