第4話 葡萄の味
ここへ来て1週間。まだ小間使いのような仕事ばかりで、カレルは操縦を忘れそうになっていた。
身体はすっかり夜型の生活に慣らした。今も夜中であたりは真っ暗だ。電灯をつけるから、神父から貰ったランプは未だに使っていない。カレルはなんとなく、まだ使い時を読めずにいた。
カレルは司令に提出する書類を抱えて、部屋を出た。その辺りの廊下の角で、何かにぶつかる。
「なんだァ〜てめえ」
確実に人間だ。面倒な部類の。
「すみません……あなたは66部隊の人ですか?」
カレルがそう聞いたのは、おおよそ相手が仕事中には見えなかったからだ。酔っ払っている。呂律が怪しくて酒臭い。
「そうだ!俺はヴォルだろうが」
「初対面です」
「そうかァ?よろしくな!」
それでは、と男の横を通り抜けようとすると、カレルは肩を掴まれる。
「おい、あんた☆*%…^$」
完全に何を言っているか不明となった時、突如助け舟が現れた。
「隊長……!」
「ああ、ヴォルと新入りか」
この様子を見ても特に驚きは無いらしかった。
******
「ヴォルは5割……いや8割くらいこの状態だ」
いつもブリーフィングなどをする広間にヴォルを引きずってきて床に投げ、隊長とカレルは椅子に腰掛けていた。
「大変ですね」
「いつもはハルケという男がこいつを運んでいるのだがな」
隊長はふうと息を吐いた。
「まあ、こうやって投げておけばよい」
「この人は一体何の仕事を?」
「パイロットだ」
カレルは絶句した。前に、他の部隊で墜落死した者の懐から酒瓶が出てきたという話を聞いた。それから絶対に飲酒操縦はしないと誓っていたのだ。
******
「だめですよ、絶対」
「それでもヴォルくんの操縦技術は確かなものだよ」
カレルは司令の部屋に居た。書類を出しに来たついでに意義を唱えるが、そもそも側から見れば精神に異常ありの男であるカレルが居る、ここはそういう場所なのである。
「君の飛行許可が用意できたんだ。明日、慣熟飛行をするよ。ヴォルくんが付き添いでね」
今日も夜の帳が降り切った。
夜が来ない日など無いのだ。
「よう、新入り。俺はヴォルだ。よろしくな」
差し出されたヴォルの手は小刻みに震えていた。
「……よろしくお願いします」
初対面じゃありませんとも、飛行機がフラッターを起こしているようなその手にも何も言えず、ただ手を握り返した。
さまざまな部品が回転し、擦れ、独特の周波数でもって鳴く。その音は楽譜の音符には囚われず、自由で、その為に不気味だった。
夜の空遠くに、雲に隠れた月がある。今日は満月だ。
「俺に着いてきな」
無線機で、ヴォルはカレルに指示を出す。カレルはというと、前に居た部隊で体に染み付いた動作で機体を動かしていた。
二機の黒いツグミが地を蹴り空へ飛び出す。
「だめだ手が震える」
ヴォルは茶色くて平たい瓶を懐から取り出して、金属のキャップをポンと外し中の液体を呑み下した。
「良し!」
ヴォルの機体は水面を滑るように美しくなめらかに飛んだ。
カレルは、あの粗野な酔っぱらいがこのような操縦ができることを目の当たりにして思い出した。残念だが、飛行機の世界では操縦の腕と操縦者の人格や素行の良さは比例しないことが多い。その一例がまた増えたのである。カレルはげんなりした。
カレルの心のうちは除いて、慣熟飛行は順調に進み、一本の無線が入る。
「ヴォルくん。カレルくんを撃墜しなさい」
カレルは目をひん剥いて指令所のほうを見た。
「もちろん模擬でね」
司令のにこりと笑う様が見えるようだった。
「アイサー、任せとけ!」
「今日は何本飲んだんだ」
「たったの1本」
無線に茶々を入れたのは隊長だ。
「バレルロールだァ!」
「今日は慣熟ですよね!?」
「そんな事言ってられるか。お前が出来ることを見せて貰う必要がある。だろ?新入り」
同じ盤面にいたヴォルの駒が、遠ざかって下へ。機首をこちらへ向け直して撃ってくるつもりだろう。
カレル機は上方に躍り出て、ヴォルを誘い込む。雲の海を抜けた先の、月光のステージ。ここで鶫は二機で殺し合うのだ。
ヴォルのドロッセルは鳴いた。甲高いプロペラの音が闇を裂く。
「どうだ?
闇に紛れる真黒の塗装。やはり夜空の中では見えづらいとカレルは思った。スロットルを上げてヴォルに追いつこうとする。
「新入り、ここの
「お前、振り回されてやしないか?鶫に」
新型プロペラの推力を持て余し、暴れ馬と化したドロッセルは騎手を振り落とした。
カレル機はヴォル機の前にずるずると引き出されたようだった。
「勝負あり!」
照準機、点と線、カレルのドロッセル。
撃墜判定。
雲の上、2機のドロッセルと闇を月光が照らしていた。
******
「勝ったぜ、指令」
「急なお願いありがとう、ヴォルくん」
指令はぬるい酒瓶をヴォルに投げ渡した。ヴォルはぱしっと良い音をさせて受け取る。
「カレルくんには強くなって貰わないといけないんだ」
薄暗い滑走路脇の小部屋では、司令の顔は闇に沈んでしまっていた。
「頼んだよ」
ヴォルによるカレルの“撃墜”が行われたあと、当事者と隊長は広間でデブリーフィングをしていた。
「お前思ったより弱いじゃねえかよ!これだからウチの軍の奴らは……」
空の瓶が床に転がり始めた。これが66部隊流のデブリーフィングか。カレルは心底うんざりした顔で、それでも逃げられずに静かに座っている。
「フン!新入り、もう少し鍛えないとだめだな」
隊長は鼻を鳴らした。
「ぼくは1週間以上ぶりに乗ったんですよ」
「もっと染みつかせる必要がある。翼が自分の腕だと錯覚するほどにな」
「そうだそうだァ!これは燃料」
ヴォルが酒瓶を掲げて言った。もはや呂律が回っていなかったが。間も無く机にへたり込んだ。
「もうダメだな。その辺に転がしておけ」
「アイサー」
カレルは広間の、結局土足で踏み躙られるのに妙に豪華な絨毯の上にヴォルを捨て置いた。
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