第12話

 12


「エリス。走る時は手を放して?」

「………」


 聞こえているのか、いないのか。

 エリスは僕の左手をがっちりと握って放そうとしない。

 振りほどくのは簡単だけど、そうしたらこの子はショックで彫像みたいに硬直してしまうんだ。

 なんでわかるかって?

 初日の実体験のせいだよ。

 相変わらず表情はないのに、ショックを受けているのが伝わってきて罪悪感で潰れるかと思ったわ。


「ね? お願いだから」

「……ん」


 優しくお願いすると、少しだけ力が抜ける。

 うんうん。昨日よりも気持ち反応が早い、気がする。

 ちょっとはここの環境に慣れたおかげだといいなあ。


 エリスが手を放すまでの間、辺りを見回すと子供たちが遠巻きに見ていた。

 内気なティーは当然として、陽キャのトットやアネゴ肌のタリアも近づいてこない辺り異物感が半端ない。


「どうしたものか……」


 無口ちゃん改め、エリス(聞き出すのに丸一日かかった)と出会って五日。

 僕は日常を取り戻せないままだった。


 この五日、エリスは完全に抱っこちゃん人形状態。

 ひと時たりとも離れたくないと言わんばかりの引っ付き虫。

 おはようからおやすみまで、ご飯もお昼寝も遊びもお手伝いも、日課のトレーニングだって一苦労。

 遊びにも交ざれないから、普通に孤児院の周りを走る事になってしまっているんだけど、その走る時以外はずっと隣か後ろについて回ってくる。


 どうやって父さんが説得したのかわからないけど、翌朝には院長もエリスを受け入れる事を了承していて、朝食前に皆に挨拶させようとしたんだけどねえ。


 無言。


 完全なる無言。

 僕の腕にしがみついて、目も合わせず、促しても声ひとつ出さない。

 その後、積極的な子供が話しかけたりもしたけど、まるで反応なしのまま五日だ。

 おかげで僕も子供たちと距離ができてしまっている。


 昨日に至っては僕を独り占めするなとトットが怒鳴ったりもしたのに無反応なものだから一触即発の空気。

 僕たちが止めなかったら取っ組み合いのケンカ――いや、一方的な暴力になっていたかもしれない。


 ディスコミュニケーションなのはわかっていたけど、これは酷い。

 助けあいが基本の孤児院で、孤立してしまうと大変だ。

 なんとか、子供たちの輪の中に入れてあげたいんだけど、時間が掛かりそうだなあ。

 こういう時は院長が持ち前の不器用さを発揮させて無茶ぶり気味にペアを命じるのに、それもなかったのが痛い。

 他の子供に僕が悪い影響を与えるとか思われているんだろうか……。


「僕にくっついてばかりじゃダメだし」


 今のところはいい。

 アドル父さん、本気でエリスを僕の嫁と紹介しやがったからな!

 耳年増のタリアが顔を赤くしていたのはご愛敬。

 他の子もよくわからないくせに「ふうふ、ふうふー!」とからかってくるのは腹立たしいけど、子供のする事だ。すぐに飽きてくれた。

 前世をふくめても恋愛経験のない僕もポーカーフェイスの下で照れていたのは内緒だ。

 ともかく、子供たちがちゃんと理解できたわけじゃないだろうけど、僕と二人きりでもお嫁さんだからって納得してくれている。

 それもいつまでもってくれるか……。


 心配していると、服を引っ張られる感覚。

 見ればエリスが握っていた手を、今度は服を摘まむ方に変えていた。

 うん。それじゃ意味ないよー。


「ね」

「ん? 何かあった?」


 人恋しくて服を掴んだじゃないのかな?

 珍しく、非常に珍しくエリスから声を掛けてきた。


「なんで?」

「なんでって、なにが?」

「走るの」


 なんで走るのかって?

 そういえば誰にも言ってなかったな。

 よくよく考えてみると、院長も子供たちも聞いてこなかったっけ。


 ……四歳児が走り込みを始めたのに聞かれないのもどうなんだ?

 え? もしかして、僕ならそんな事をやってもおかしくないって思われてるの?

 アドル父さんに変とか言われたのが信憑性出てきてない?

 いや、気のせい。気のせいだ。子供だって急に走りたくなる時がきっとあるはず。


「……鍛えてるんだよ。僕は最高の冒険者になって、魔法を極めるんだ」


 夢を語るのは恥ずかしくなんかない。

 こうして口に出して、決意を鈍らせないためにも堂々と宣言する。

 エリスはよくわかっていないのか反応なし。


「走ると、もっと走れるようになるから」


 簡単に言ってみても伝わらなかったようだ。

 苦笑いで誤魔化して、そっと手を外してから準備運動を開始。

 隣のエリスも僕をマネして体を動かしているけど、内気な割に切れがいいな。いや、内向的だから運動できないわけじゃないけどさ。


「じゃあ、僕は走っているからエリスは他の子と……」

「いく」

「え?」

「いく」


 行くってどこ?

 ここではないどこかとか詩的な事を言われても面白い返事なんてできないよ。

 エリスからは追加のヒントはないようで、じっと僕を見つめるだけ。


「行くって……」


 お昼寝には早いし、朝夕二食の孤児院にお昼ご飯はないし、そもそも僕のいない場所に行こうとしない。

 となると。


「一緒に走るの?」


 こくこくと頷くエリス。

 おー、二回も頷くあたりもしかしたらテンション高め?

 出会った時のやつれた姿が印象に強いせいで弱々しい印象があったけど、運動が好きなのだろうか。

 まあ、このまま一人で立ち尽くしているよりはいいか。

 ますます僕に依存状態になってしまうのは頭が痛いけど、まだ共同生活を始めて五日なんだからと割り切ろう。


「いいよ。行こう」


 走り出すとついてきた。

 ぴったり真後ろから息づかいが聞こえてくる。

 僕で空気抵抗を少なくしようとしているんじゃないかと思うぐらいの位置。

 それでも普段から運動している僕とでは体力が違う。

 孤児院を一周、二周、三周と走り続けると、段々とお互いの距離が離れ始めた。


 やっぱり速くない。

 息もすぐに上がる。

 食生活が改善されて五日じゃ仕方ないだろう。

 けど、運動神経が悪い感じじゃない。

 腕の振りとか、足の運びとか、体幹のブレなさとか、うまく言葉にできないけど、フォームがかっこいい。

 あと根性もある。

 どんなに距離が開いても諦めないで走り続けている。


「きつかったら無理しないでいいよ」

「………」


 周回遅れになったところで声を掛けるけど、無言で走り続ける。

 まっすぐ前を見据えて、無表情なりに真剣な様子。

 僕の声も耳に入っていないんじゃないか?

 てっきり僕の近くにいたいだけだと思っていたけど違うの? うっわ。これは恥ずかしい。自意識過剰過ぎる……。


 恥ずかしさに気付かないふりをして追い越す。


「本当に無理しちゃダメだよ」


 返事をする余裕もないのか、いつもの無口なのか。

 息は乱れているのに表情はないから読みづらいなあ。




 結局、エリスはきっちり十周、僕と同じ距離を走り切ったところで、電池が切れたみたいにぽてっと倒れた。


「うわあああああああああっ! 院長! 誰か、院長呼んでー!」

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