注文が一つだけの本屋さん

大柳未来

本編

 ――カラン、カラン。


 私が入店したことを鈴の音が店中に知らせてくれます。薄ぼんやりとしたオレンジ色の照明が、ごちゃごちゃした本棚を照らしてくれているのが分かります。鼻腔が古びた紙独特の香りで満たされ、心地よい安心感を与えてくれます。


「いらっしゃい」


 店の奥から挨拶が聞こえました。本棚の自生林をかき分け、歩みを進めます。そうしますと奥は一段高くなっており、畳が敷かれてました。

 ロマンスグレーと言いますか、白髪が妙に合う和装の店主があぐらをかいて座しています。小机に本を広げ、下を向きっぱなし。客に媚びないところが逆に好感が持てます。

 仕事帰りに普段とは違う道で帰って良かった。まさかこんなところに古本屋があったとは。


「すみません。ここは主にどのような本を置かれてるんですか?」


 こういう古本屋に来た時、私はまず店主と話すことから始めるのが常でした。人となりを知ればどういった本が置かれるかも分かるし、もしかしたら掘り出し物を教えてもらえるかもしれません。


「――何でもある」

「何でも、ですか?」

「あぁ、そうだ」


 オウム返しすると、初めて店主が顔を上げました。目が疲れているのでしょうか。血走った眼でこちらを睨んでいます。眉間に寄った皺が、浅草の風神雷神を思わせる気迫を発しておりました。


「聞こえなかったか?」

「いや、その……流石に大言壮語では?」


「はっはっはっはっ、そりゃそう思うわな。でもここは普通の本屋じゃねぇ。本当に何でもあるんだ。見たいか?」

「もちろんです」


 正直に申し上げますと、私はこの店主の言葉を信じておりませんでした。あれもない、これもないと揚げ足をとり、こてんぱんにやっつけてやろうとさえ想起していたのです。しかし、この考えはすぐに消し飛ばされる羽目になりました。


「よいしょっと。ほら、題名でも内容でも良い、頭の中で欲しい本思い浮かべてから、適当に取ってみな」


 店主は立ち上がると、顎で本棚を指し示します。マジシャンにでもなったつもりなのでしょうか。本棚の本はすべてブックカバーが掛かっており、タイトルは分かりません。


 私は試しに、妻からプレゼントされた電子書籍で読んでいる、本格ミステリのタイトルを思い浮かべました。このタイトルは出版されて日が浅く、このような場末の店にはそうそう置いていないだろう、と邪推してのことでした。


 そうしてなんとなく手を伸ばすと、吸い込まれるように一冊の本を掴むではありませんか。その瞬間だけ、私の手が私のものではなくなるような、何ともいえぬ不思議な感覚に支配されました。


 手に取った本は、丁度本格ミステリと同程度の分厚さを持つ、ハードカバーの本でした。試しに開くと、私が思い浮かべた通りの本と全く同じ本が手の中にあったのでした。


「そんな馬鹿な……!!?」

「ふっふっふっ、言ったろ? ここは普通じゃねぇ。いくらでも本を確認してもいいけど、一日一冊しか買えねぇから、しっかり選ぶといい。お題は机の上に置いといてくれて構わん」

「おぉ……!! ありがとうございます!」


 それから、私は時間を忘れて本を読み漁りました。あの話題作からあの懐かしい名作まで、駆け抜けるように確認していきました。あぁ、仕事終わりでなければ、いつまでも入り浸って本を読んでられるのに!! ここはまさしく天国だと、確信に至ったのでありました。


 結局、私は最初に思い浮かべた本格ミステリの本を買うことに決めました。お代として千円札を小机の上に置きます。そこで初めて気づきました。この店、レジがありません。


「おいおい、その目は節穴か? よく読んでくれ」


 店主が店内の張り紙を顎で指します。『購入は一人一冊まで。必ず一冊の本を置いてから退店すること』。そう筆で認められていました。


「これだけがうちのルールだ。買うのは一冊までだが、帰る時は買う買わないに関わらず、本を置いてから帰る。これは絶対だ」

「それが、守れなかった場合は……?」

「守れない?」


 店主は訝しげに眉をひそめます。


「んなことはないだろ。そんだけ本が好きなら一冊や二冊、持ち歩いてるもんなんだから」

「分かりました! 帰宅さえすればいくらでも本はあるんです。すぐに取ってきますので少々お待ちください!」


 私は購入予定の本を棚に戻すと、出口に手を掛けました。しかし、まるで溶接でもされたかのようにピクリとも動きません。


「ちょっと! ドアが自動で施錠されてます! 開けてください!!」


 店主の下に戻り、クレームを言いにいきます。すると店主は下を向き、肩を震わせていました。


「くっくっくっくっくっ……やっとだぁ……! やっと現れた!!」


 店主は私の肩をがっしり掴み、強く揺さぶってきます。


「ルールを守れない奴はな、店番をするしかなくなるんだよ。次にルールを破る客が現れるまで、ずっと、ずーっとな……!」


 バラエティ番組のドッキリにでも仕掛けられてるのでしょうか。そうとしか思えません。私の理性的な部分は店主の狂喜乱舞を見て異常者が目の前にいると判断しています。

 しかし、店主の感情の発露、そして先ほどの種も仕掛けもない好きな本を引き出せる本棚の存在が、店主の話に嘘偽りがないということを示しているように、本能で感じられました。ごくり、思わず唾を飲む。どうすればいい……。

 

 私の理性は異常者の対応を命令してきました。即座にスマートフォンを出し、110番をコールしようとします。


「無駄だ。ここは圏外。世界と隔絶されちまうんだよ。外に出ることはできず、腹も減らず、歳を取ることもない。外の世界のことは本を通して知るしかないんだ……これでやっと、故郷に帰れる。俺のことを知ってる奴は一人もいないだろうけどな」


 店主が出口へ歩みを進めます。不味い……!

 私は咄嗟に店主にしがみつきます。


「後生です! 待ってください! 家に大量に蔵書があるんです! すぐに、すぐに取ってきますから!」

「往生際が悪い! 黙って俺の代わりに囚われの身になってくれ! 俺は疲れたんだよ!!」


 年齢差で押し切れると思ったのに、見た目からは感じられない力強さで振り飛ばされます。

 私が、欲を出したからでしょうか。そもそも妻からのプレゼントが電子書籍だったのもあり、そろそろ切り替えるべきだろうと紙の本は買い控えていたのです。でも、今日くらいは買ってもいいとよぎり、それで罰があたってしまったのでしょうか。


「じゃあな。たまには様子を見に来てやるよ。俺の寿命が尽きるまでだけどな」


 店主が出口へ手をかけます。しかし――鈴の音が店内に響くことはありませんでした。


「なっ、何で開かねぇ!! 開け、このっ、オラッ、開けっつってんだよッ!!」


 店主は何度も何度もドアへ体当たりをしています。だというのに、ドアは微動だにせず、ついに店主は座り込んでしまいました。

 私はゆっくりと出口へ向かいます。ドアに手を掛けると、今度はすんなり開きました。


「当たり前じゃないですか。私はルールを守ったんですから」


 店主は即座に振り返り、小机の方を見ます。そこには私のスマートフォンが置かれていました。


 カラン、カラン。

 私が出るとドアは閉まり、鈴の音が聞こえてきます。そこに店主がドアに張り付き、くぐもった叫び声が聞こえてきました。その手には私のスマートフォンが握られています。


「圏外なんだぞ! 読めるはずがない!! ルール違反だ!!」

「事前にダウンロードしておけば圏外でも本は読めるんです。それでは失礼します」


 その後も何事か喚いていましたが、意に返す必要はありませんでした。私は二度とこの本屋に行くことはないでしょう。

 帰りましょう。妻の待つ我が家へ。

 私は深まった夜の路地裏を、風を切って歩きます。くぐもった喚き声は、やがて聞こえなくなっていきました。

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