春と本屋と私

小夜樹

春と本屋と私

 土曜日の昼下がり。春の陽気に中てられてなんだか居ても立っても居られなくなった私は、行き先も決めずにタンポポの綿毛よろしくふらふらと家から出た。気持ちのよい穏やかな風が、髪の間を通り抜けていった。


 私の場合、大抵こういう行き先が決まっていないときというのは、返って行き先がある場所に決まってしまう。歩いて大体20分くらい、個人経営でいかにも昔からありますよと言っているような外観の古本屋だ。注目の新刊が堂々と立てられて、本が綺麗に行儀よく整列されている大手の本屋とは真逆と言っていい。どこかで見たことがあるような本から、誰が興味を持つのだろうと思ってしまうような古くて難しそうな本。ここでは、それらが辛うじて何らかの規則に則って雑然と並んでいる。静かな店内を照らす蛍光灯と、レジにいるおじいちゃんもまたないい味を出している。ここにいると、どこに行けばいいのか分からない上に自分が何者なのか分からなくなっている自分が、複雑に絡み合った大きな網のようなものに、雑に包まれる感覚がして心が安らぐ。そうして気が済むまで網と戯れたら、一冊だけ買って帰るのだ。


 何を探すわけでもなく適当に本棚を眺める。一つ面白いのは、目に留まる背表紙が毎回バラバラなことだ。小さな店内で本の入れ替わりはそれほど激しくないように思えるけれど、この本前も見たな、と思うものはあまりない。ある時妙に視界に入る本があったのであれば、それはきっとまさにその日その時読むべき本なのだろうと勝手に思っている。誰かに手放されたまま本棚にじっと座っている本と、地に足つかない私。似た者同士の私たちは、きっとそういう巡り合わせの中で生きている。


「80円のお返しになります。ありがとうございました……あぁ、少しいいですか」


「あんた、ここ数年よく来てくれてたでしょう。お礼を言いたくてね」


「この店は今月をもって畳むことにしたんです」


 帰り道。少し軽くなって春風に飛ばされそうな私の心を、鞄に入っている一冊の重みがなんとか繋ぎ留めていた。

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春と本屋と私 小夜樹 @sayo_itsuki

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