第九話 装甲砲艦「天陽丸」
「観音崎通過。観音崎通過」
伝声管からくぐもった声が響き、それに一等機関士の怒鳴り声が被さる。
機関の運転速度を高める警鈴も加わり、機関室内は耳をふさぎたくなるような騒音に満たされていた。
「遅いぞ新兵! 焚け! もっと焚け!!」
海野と山田は並んで吹き出る汗を拭う間もなく一心にスコップを振る。
天窓から指す細い光だけで手探りで炭山を切り崩し、もう片方の手で焚口の扉をレバーを操作し、一定の拍を打つよう開閉を繰り返して缶へ石炭を投げ入れる。
投げ入れる直前にスコップの先端をひねるようにして裏返し、火床にまんべんなく石炭が広がるように「注ぎ入れる」のがコツだ、と指導した機関兵曹は言っていたが、そんな余裕は失われて久しい。
ただ一定の間隔でスコップを振り、焚口の扉を開け、投げ入れる。
流れ落ちる汗を拭う余裕もなく、それを繰り返すだけの絡繰のようになって二人は動き続けた。
しばらくするうちにスコップを振る腕と、焚口の扉を開ける腕との連携が乱れ始める。焚口へ差し入れたつもりのスコップの先端が、閉じた扉を思い切り叩いて石炭をばらまきながら派手な音をたてる。
まずは山田が、ついで海野がしくじり、やがてそれが続くようになると一等機関士は頷いて交代を促した。
朦朧とした二人は交代の兵と言葉をかわす余裕もなく、別の兵に抱えられるようにして甲板へと出る。
疲労困憊した二人はそこでへたり込み、兵の前にも関わらず甲板に伸びるように寝転がった。
両腕のしびれを感じながら、ようやく呼吸の落ち着いてきた山田は甲板を吹き抜ける風に汗が引いていくのを感じていた。
帆は張られていない。
「天陽丸」は蒸気機関だけで洋上を驀進していた。
うすく閉じていた瞼の上に影がさした次の瞬間、山田は顔に水をかけられていた。
隣の海野も同じように食らったようで、あわてて飛び起きる。
「士官候補生がそれでは困りますな。シャンとしていただかないと」
真っ黒に日焼けした掌帆長が、そこだけ赤くひび割れたように口を開いてニヤリと笑った。
「しかしたいしたもの。 最初の投炭で一五分もつ者ははじめて見ました。
ふたりとも元気者ですな」
薬缶と茶碗とを甲板に置きながら掌帆長は続けた。
「艦長がお呼びです。 一五分後、艦橋に集合願います」
そう言い終えると上体を起こしただけの二人に対して見事な敬礼を決めて去る。
「急ごう」
先に茶碗を手にとり、薬缶から水を注いで二杯一気に飲み干した海野が言った。
山田もそれに続く。飲むごとに体に染み渡り頭が覚醒していく。
痺れていた両腕の感覚も戻り、乾いた汗が塩になってざらつく肌の感覚も戻ってきた。顔のかゆみとともに、両四肢にも不快なごわつく感触があった。長袖の作業衣は裾が真っ黒に炭に汚れ、それに比べればまだマシなものの全身まんべんなく汚れていた。隣の海野を見れば、掌帆長よりもまだらではあるがさらに黒い顔をしていた。水を呑んだ口と、ギョロつく目だけが鮮やかな紅白を示しているのが何だかおかしい。
山田も似たようなツラをしているのだろう、海野も笑みを浮かべている。
「顔洗おうや」
山田が声をかけて二人は立ち上がりかけ、ふらついたのでもう一度薬缶から水を飲む。すっかり空になった薬缶に茶碗を2つ入れてぶら下げると、二人は甲板を一段降りた。
降りた先は主砲甲板だった。
巨大な旋回主砲塔が甲板の中央に鎮座している。海野らの居室は反対舷であったから、この主砲塔をぐるりと一周しなければならなかった。主砲塔背後は艦橋甲板と合体した格好になっていて通り抜けできないのが厄介だった。
二人は少し駆け足になって主砲塔を回り込み、途中で思いついた山田が船首甲板の洗面所からバケット一杯の海水を得る。出港直後で帆も張っていないから甲板に出ている兵はほとんどいない。主砲塔の斜め後ろに陣取ると、二人は居室から持ってきた手拭いで手早く顔を拭き、体を拭った。たったひと拭きで真っ黒に染まる手拭いに閉口しながらも時間がない。二人は褌一丁になって作業衣を丸めると、真っ黒になった海水を捨ててバケットの中に突っ込んだ。
通常の制服に着替えて艦橋に上ったのはきっかり一五分よりやや前であった。
「山田学生、海野学生、よくぞ「天陽丸」へ」
二人を出迎えた、柳川教官も恐れたという「天陽丸」の指揮官の声音は、二人には柔和な好々爺のようにしか思えなかった。乗艦時の挨拶は済ませていたが、出港準備の慌ただしさもあり落ち着いて相対するのはこれがはじめてだった。
声音とは裏腹に鼻先から左頬にかけて伸びた縫い跡が目立ち、それに二人の視線はどうしても引っ張られてしまう。艦長はそれに気付いたのか、縫い跡にひきつれてやや歪んでいるように見える左端の唇が、さらに歪む。
「本艦の艦長、中島三郎助だ。
……これは先の戦の時の傷で、医者はなるべく目立たぬようにしてくれたのだが、やはり気になるか」
中島艦長はそう言って唇の端から頬骨のあたりまで右手の指を伸ばして傷跡を撫でる。
その時に浮かべた笑みの鋭さに、二人は最初の認識をあらためた。海野は地味に怖い人だと悟ると同時に、小さな違和感を覚えた。
それに気付いたのか否か、中島艦長は続ける。
「顔はまだいいが、腕のほうが厄介だ」
そう言って不器用に左腕を振ってみせた。よくよく見ればその先端は精巧に出来た義手であることが知れる。
「とはいえ、悪いことばかりでもなくてな。この時に肺の腑に穴が開いたせいか、すっかり喘息がなくなった」
呵呵と笑う中島艦長にどう答えたものか、困惑するが中島艦長は答えを期待していたわけではないらしい。そのまま続ける。
「砲術長に聞いたぞ。島村どのに『外国を見てこい』と、そう言われたそうだな」
「はい」
「うむ。あの人らしい、いい指示だ。曖昧だがハッキリしている」
中島艦長はそう言って頷き、二人にあらためて向き直った。
「学生。 二人は本朝と外国とを分けるものをなにと考えるか」
突然の問いに戸惑う二人。返事せぬ訳にもいかぬので黙り込んでいたのは一瞬で、海野がまず答えた。
「本朝は天皇陛下をいただく親政統治の国というのが、アメリカなどと違います」
「本朝は大和民族からなる国であるのが、他所の国と異なります」
山田も思いついたままに答える。
「すぐに答えられるのは良いことだ。士官は躊躇ってはならない。これからも精進せよ。
しかし、そのいずれも答えではないな。もっと単純な話だ」
そういって中島艦長は一呼吸をおく。
「次の質問にはすぐに答えなくてよい。熟考して答えを出せばよい。小官に回答せずともよい。
……砲術長」
「はっ」
やや離れた場所で艦橋見張りを続けていた柳川砲術長に、中島艦長は声をかけた。
「貴官らの教育を若干逸脱するかもしれん。容赦願いたい」
「島村教練監はそのことも含めて、今回の帯同を指示したものと心得ています」
「そうか」
頷くと中島艦長はもう一度、わずかな間を挟んでから言った。
「学生。
オレたちはなぜ先の戦…戊辰戦争を戦ったと思うか。
関ヶ原の戦いの後もなぜ、戦い続けたと思うか。
とくにオレや榎本が「ストーンウォール」や「ユーライアラス」と戦ったのは何故と思うか?」
一気に言い終わると、呼吸をととのえて続けた。
「山田学生、海野学生。おのおの自身の感覚として答えよ。
島村どのもそれを期待している――と、小官は考える」
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