第八話 江華島事件・下
明治八年。
徳川の治世が終わったあと現在に至るまで、朝鮮との国交は新政府の頭痛の種であり続けた。東西戦争中の混乱が一段落して後、国交の再開交渉を持ったものの、どうにも進まない。
こちらの親書の「天皇」とくに「皇」が朝鮮側にとって大いなる障害になっていることは明治新政府とて了解している。冊封体制を維持したままの朝鮮にとってその文字をもって契りを結ぶのはただ清国あるのみという主張は旧時代であれば当然であった。そこは了解していたから皇帝と天皇との違いを逐一説明するのだが、清国を頂点として臣従する朝鮮にしてみれば中国以外に「皇」を名乗るものが居るのがどうにも気に入らない、とくにそれが日本となるとさらに許しがたいということになるようで、とりつく島もない。
一方で日本も引き下がるわけにはいかなかった。
皇帝を名乗るものが世界にはあちこちに点在し並び立っているということは曲げられない。中国だけが皇帝だと認めたところで、ロシア皇帝が皇帝であることを辞めるわけがない。日本とて事情は変わらない。幕府が倒れた以上、それに代わる体制としての天皇を核とした統治体制を辞めることはない。
現実のほうが旧時代の認識に合わせてくれないのは、アヘン戦争以来、冊封体制を破壊された清国の現状を見れば理解できるはず。
ひとまずその点はいつまで経っても埒があかないと思われたため、いったん棚上げしてより喫緊の課題についての解決を模索することにした。
江華島事件は、その解決を試みている最中に起こった事件だった。
「また雲揚艦なのか」
「またとはなんですか、またとは」
「台湾のときだってそうだろう」
「あの時は抑えに回った側ですよ。今回のような狼藉ではないでしょうに」
呆れたように零す島村教練監を諌めたのは、柳川教官だった。
事件が起きたのは九月下旬。翌月にはあれこれと仔細が小田原兵学校にも伝わってくる。教育優先で東西の都から離れた場所ではあっても、情報それ自体が遮断されているわけではない。
なによりも。
「なら貴官が呼ばれることもあるまい?」
「それとこれと話が違うのではありませんか?」
「違わないさ。
わざわざ大砲上手の砲術長を復職せよと指名してきたぞ向こうは。
何かしらやるつもりと考えておいたほうが良かろう。
雲揚艦はそもそも長州のフネでもあるしな」
「……さすがにそれは冗談が過ぎますぞ、教練監」
「すまん」
一通の命令書を机の上に広げて、島村と柳川はしばし沈黙する。
そこには柳川に至急「天陽丸」砲術長への復帰を命じる文言が書かれていた。
島村教練監でなくとも違和感を覚えざるを得ない内容だった。
昨年の道政府海軍の蒸気船接収は非常の任務であった。
ほんらいであれば小田原兵学校の所属練習船である「千代田艦」はその任務に専念することが求められている。その指揮官も軽々に動かして良いものではないという認識は海軍部内でも共有されているはずだった。
にもかかわらず、由利島沖海戦の際に砲術長だったからという理由で、「天陽丸」の指揮官は柳川を呼び戻そうとしている。
柳川は指揮官の性格をよく知っているから、彼が肚の底で合戦を決意したのではないかと虞れていた。
島村もその評判は知っているから「雲揚艦」と交戦するつもりではないか? と尋ねたのだ。柳川にとってはとんだ厄介な話だ。
むりやり話を変えようと、柳川は思いついたように言った。
「しかし海軍はともかく、政府がよく「天陽丸」の出動を許可しましたね」
「やはり政府としても、「雲揚艦」はやりすぎと感じたのと違うか」
話題はけっきょく変わらなかった。柳川は諦めて応じる。
「どうでしょうか。政府の駐韓公使も乗っていたのなら、了解した上での行動だと思いますがね」
「しかしありゃあ、むかし黒船がやったことそのままじゃないか。
あれを挑発と思わんやつは、正真正銘の腑抜けだぞ」
朝鮮と新政府との国交の回復で親書問題とならんで大きな課題となっていたのが、外交の窓口をどうするかであった。
徳川の治世では朝鮮通信使の遣り取りは対馬の宗氏が担当していたが、親書では妥協を模索していた新政府でも、それを踏襲するのは絶対に容認できなかった。
対馬には暫定ではあるが、新政府が宗氏に一定の自治権を保証している。
その宗氏が「外交の窓口」として機能してしまえば、より巨大な各道政府が独自の外交を展開しようとしてもおかしくない。
そうなれば国防と外交に関して専権を任されている中央政府の正当性が著しく傷つけられる。それだけは絶対に許されない。
朝鮮側は外交の窓口は宗氏が引き続き担うものとして譲らなかったものの、日本側も譲れない。ために宗氏の引き上げと、新任の駐韓公使との交代を通告して送り込んだのだが、朝鮮側はこれに激しく抵抗した。
それを抑え込むための示威行為として「雲揚艦」がとった行動が、江華島の測量だった。浦賀でペリー艦隊がやったことそのままだ。
とうぜん朝鮮側は反発する。測量のために「雲揚艦」の下ろした端艇に砲火を浴びせて撃退し、これに対する反撃として「雲揚艦」が江華島の砲台を壊滅させた。向こうから攻撃してきたとはいえ、じっさいに攻撃しているから本邦に対するペリーよりも質の悪い振る舞い、狼藉だったと言える。
「雲揚艦」の威力に怖気づいた朝鮮側が一転して駐韓公使の受け入れを申し出てきたのは良いとしても、このやり方は確実に禍根を残す。中央政府には幕府の官僚機構から横滑りして官吏として奉職しているものも数多居て、その中でも朝鮮との接触の機会のあったものほど警鐘を鳴らしていた。曰く彼らは尊大なほど気位が高くそして気の遠くなるほど執念深いので、いちど揉めると面倒なことこの上ない、という。
中央政府はその忠告を容れ、「雲揚艦」を引き上げ、交代として「天陽丸」の派遣を決定した。
着任したばかりの駐韓公使も、朝鮮に顔の知られているかつての通信使接遇の経験のある幕閣から選ばれた後任に交代することになった。かなりの高齢だったからあくまで肩書だけの駐韓公使で、実務は補佐役に任せることになる。これは現駐韓公使が担当することになる予定となっていた。
柳川教官も「天陽丸」砲術長として、「千代田艦」を離れることとなった。
慌ただしく引き継ぎを済ませて、柳川教官は山田と海野を伴って小田原を後にする。
島村教練監の指示で、教育の一環として一期生の選抜者から「天陽丸」乗組を許可してもらった結果だった。山田も海野も一兵卒の身分で「天陽丸」に組み込まれることになる。
降って湧いた幸運に、二人はほかの一期生の羨望を浴びながら横須賀へ向かう。
海野と山田は一期生の誰もが見たことのない「外国」に思いを馳せる。
それが幸せなのか、どうか。
柳川はどう声をかけたものか考えあぐね、けっきょく何も声をかけられずにいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます