第七話 江華島事件・上

 明治八年。

 海野ら小田原兵学校一期生は二学年に進級した。

 二期生を迎え、一期生は後輩を得ることになる。先輩としてあるべき姿については昨年末から一期生全員で結託していくらかの誓文を立てて教官連の許可も得ていたものの、いざじっさいに二期生を迎えるとなると、頭で描いていたような立派な先輩として振る舞いきれず、緊張と照れとで上手く動けない。

 そうした後輩を迎え入れた最初の兵学校生としての悩みも大きかったけれども、それよりも大きな難問を一期生は抱えていた。


「なぜ国を選んだか、かぁ」

 鷲尾がいつになく深刻な表情を浮かべて呟いた。

 すでに陸海の分科が済んだあとも、宿所の振り分けは本科にあがる四学年までは従来のままとされていた。鷲尾らの寝台区画では阿世知と山田が海軍、海野と鷲尾が陸軍を志願し、その進路が決定していた。

「山田と阿世知ってイエはサムライだよな」

 鷲尾は首を曲げて級友らに問う。二人がうなずくと続けて問うた。

「なら田舎で出世しようとかは考えなかったのか? 阿世知なんかは長男だろ」

「それなら俺も問いたい。

 鷲尾んところは地元では知られた呉服の大店だっていうじゃないか。そのまま継いでも良かったんじゃないのか」

 そう問い返したのは山田だった。

「俺は三男だからそもそも話が回ってこないよ」と鷲尾。

「それに、この先どうなるかもわかんねえし」


 鷲尾が続けて呟いた言葉で、寝台には沈黙がおりる。

 ここに居る四人すべてが、積極的な理由で小田原兵学校を……中央政府の軍隊を志望したわけではなかった。むしろ消去法の最後に残っていたのがここしかなかったと言ったほうが正しい。

 東西戦争のあとの政治体制の大転換は、まだ少年ですらなかった頃の四人にまで影響を及ぼしていた。父が失職し、かろうじて次の職を見つけてはみたものの落魄して困窮に陥ったもの。家そのものは失職も困窮もしなかったが先の上昇が断ち切られたもの。より大きな機会を求めて飛び出したものもいれば、今は安泰でも先行きのあやしい家業が生き延びるために食い扶持を減らすために追い出されたものも居る。

 いずれも事情は異なるが、そうした事情を抱えながらも優秀な頭脳と頑健な身体をもっていたが故に、郷里に残るよりはここに来たほうがまだしも、そう野心をもって小田原までやってきたのは間違いない。


 それが一期生だった。

 目の前にある困難や壁を乗り越えるために、ここまでくれば展望が見えてくると思っていた。漠然とだが、中央政府(の軍)に奉職することで、上昇が確立されるものとみなが信じていた。彼らが長じる頃には東西戦争直後の混沌とした世相も落ち着き、中央政府による統治が安定化しつつあるように感じていた。なればこそ、まだ混乱さめやらぬ故郷を離れ、安定した中央の潮流に乗れば良い、と思っていたのだ。


 しかし昨年の台湾出兵で、自分たちが信じていた「中央政府の安定的な統治」というのが実はかなり危ういバランスの上に成り立っていることを思い知らされた。

 思い返せば田埜守教官と森田教官の対立もゆえなしではない。

 いまだ生々しい戦争の傷を抱え押さえ込んで平静を保っている。あの二人がそうした過去を呑み込める、抑え込めるだけの理由として「国」があるのだろうが――台湾出兵以来、山田ら一期生には、二人の対立を抑え込める「国」の重みがわからなくなっていた。

 とくに森田教官などは、倒幕の同士として九州道政府の行動に共鳴しても良さそうなものだったが、そんな素振りはおくびにも出さず、田埜守教官とともに地方道政府海軍の軍艦接収にあたっていた。


「聞いてみるしかないんじゃねぇか?」 

 沈黙を破ったのは海野の一言だった。

「聞くって、誰に」

「誰でもいいんじゃね。教官たちみんな戊辰の役で戦ってるんだろ?

 ならどうして昔の仲間と一緒じゃなくてここに居るんですか、って聞けば――」

「馬鹿だなおまえは」

「なんだと!」

「なら貴様は聞けそうな宛てがあるのか」

「ぐぬぬ」

 話の腰を折った阿世知の言葉に反駁した海野だったが、最後には黙り込んでしまう。教官連の顔を思い浮かべた全員が、すぐに諦めるくらいだ。先走りがちな海野でも少し落ち着けば無理と分かったのだろう。


 小田原兵学校に入ったあと、一期生は先の戦争が巷間知られているような戦争ではなかったことを知った。戦禍に見舞われた土地から進学してきた者も居るし、そうでない者も教官連の従軍経験を元にした訓練と講義で実態の一片に触れた。

 華々しく語られる派手な軍記物のような戦争ではなく、多くのサムライの家系が絶え、農兵として従軍した数多の青壮年が酸鼻な死を迎えた戦争であったことを思い知らされた。

 そんな戦争の最前線で、あるいは指揮官として戦った教官たちに軽々しく尋ねられるような雰囲気は微塵もない。台湾出兵時の千代田艦上での生活を通して若干の距離が縮まった感がある、生活指導全般を担当する柳川教官に対しても、やはり聞けない。



 小田原兵学校の一期生は、現在の体制に不満があるわけではない。

 むしろ現在の体制を擁護する側として、背負って立つ者の一人としていずれ出世することを目指していた。 

 それでも、現在の体制が自分たちの思っていたよりもずっと脆いことを知り、それでもなおこの体制を背負うつもりがあるのか、どうか。

 ほぼ全員が二十歳にも満たない一期生の若者は、その覚悟を問われていた。

 とはいえ卒業までにはまだ猶予があるし、台湾出兵後の処理も上手く行った。

 だから、その頃には今より中央と道の関係は落ち着いてるだろうし、体制もより強固となっているだろうから覚悟を決めるのは難しくないはず――。


 そんな一期生たちの楽観的な見通しを砕く大事件が起こったのは、その年の九月だった。

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