第五話
小田原兵学校の一期生が漕艇訓練に明け暮れることおよそ二ヶ月。
漕手の尻の皮も分厚くなり、号令をかける艇指揮者の喉も潰れ声で再生したころ。
ようやく漕艇競争の日取りが決まった。
「列強の横浜駐屯軍の撤収に合わせて、来月の第一日曜だ。
横浜まで遠征になる。
ついては選抜者を発表する」
森田教官の言葉に、一期生全員が静かに息を呑む。
艇長・艇指揮者・漕手が左右五組の十二名。
三分の一以下の確率だが、みな自分が選ばれるものと自信満々だった。
すくなくとも、表面上は全員がそう装った。みながみな、地元では相当の成績を修めて入校してきたものばかりなのだから自負心はつよい。
黙ったまま、動かぬまま互いに牽制しあう。空気だけが張り詰めていく。
「艇指揮者、阿世知学生」
田埜守教官が選抜者の名を読み上げる。喜色満面で勢いよく返事をしようとした阿世知を森田教官が目で制して発表は粛々と進み、最後の選抜者が読み上げられた。
「艇長、鷲尾学生。以上だ」
選ばれてホッとした者のわずかに弛緩した空気と、落選したものの落胆と悔しさの混じったかすかな怒気とがないまぜになって講堂を満たす。
「今回選抜者に選ばれなかったものが劣っていたわけではない。
教官としてそれは断言する。ただ選抜された者がより秀でていただけだ。
その差はわずかでこれからいくらでも挽回可能であることも、教官は断言する」
「田埜守教官も同様である」
「以上、解散」
教官の解散命令の後も、一期生は一言も発声しなかった。
選ばれた者も無邪気に喜び合うことも出来ず、選ばれなかった者もその悔しさを表に出すこともなかった。
この数ヶ月、全員がそれだけ真面目に打ち込んできた。
体を大きくするために、慣れぬパン食にも慣れぬ獣肉食にも耐えた。
耐えたというか、疲労困憊の夕食に出される豚汁などは一期生全員の好物となり争うようにして食らった。
とにかく大量に食らうことで、火曜木曜のパン食にも慣れた。
寝ても覚めても漕艇のことばかりで頭が占められ、歩く時のリズムもオールを漕ぐ時のリズムになるほど。週礼の更新時のリズムもオールを漕ぐのと同じになり何度も教官連から叱責もされた。
その甲斐あって、御幸が浜の波にも負けず進めるようになり、早川遡上の二〇〇〇メートル周回では、いかなる漕手の組み合わせでも当初の記録より三分も速くなった。
オールを漕ぐ回数も最初の頃の二倍ちかい。
一期生みな、それほどまでに入れ込み、そして成績を伸ばしてきたのだ。
選ばれた者たちも、選ばれなかった者たちの悔しさが痛いほど分かる。対抗しあう同士であり、同時に友でもあるために、みな言葉を発することが出来なかった。
その晩。
近頃は宿所に絶えてひさしかったうめき声が久々に響いた。
以前のそれよりも密やかだったけれども、ずっと痛切に響くうめき声だった。
翌朝、選抜者たちは兵学校の「千代田艦」に乗り込み、横浜へと向かう。
残された一期生がちぎれんほどに腕をふるのに全員全力で応え、必勝を約した。
ひとしきり手を振った後、引率の柳川教官に促されて舷側に整列。
阿世知の号令一下、鷲尾、山田、海野を含む十二名の生徒が一糸乱れず敬礼する。
腕を振っていた一期生たちも直立不動になおり、これに答礼する。
千代田艦が汽笛を鳴らし、外海へ向け転舵するといよいよ北上が始まる。
ひそかに選抜から漏れているかもしれないと覚悟していた海野は、昨日から選ばれた興奮を隠して平静を装いつつ、油断すれば頬が緩むのを止められない。
小田原兵学校を代表して、いざ、英国軍人との競争に赴かんとする緊張と興奮に体が疼くのを止められない。
その浮わつきをほかの一期生に悟られなかったのはただひとつ。
ほかの一期生もまた、自身の興奮を抑えるのに必死だったためだ。
横浜では先に発っていたアーチボルド中佐が柳川教官以下の漕艇競争の選抜者を迎え入れた。
隣に見慣れぬ紳士が立っているのに怪訝な表情を浮かべた柳川教官にアーチボルド中佐は言った。
「こちらは中国艦隊司令官のアルフレッド・ライダー中将だ。
横浜駐屯軍の撤収開始にあたって来日された」
とんでもない大物が現れたことに一期生は動揺するが、柳川教官は平然と敬礼をする。答礼したライダー中将は微笑んで言った。
「今日はサムライのたまごたちの練達ぶりを見せてもらえるとアーチボルドくんに聞きました。
まだアーチボルドくんが指導してはいないようですが、なかなか見込みのある者ばかりで、これからが楽しみとか」
「はい、ライダー中将殿。
しかしサムライではなく、Officerのたまごであります。
みないかなる形であれ、輝かしき将来の約束された若者であります」
柳川教官も腕をおろし、直立不動の姿勢を保ったまま笑みを浮かべて答える。
ともすれば傲岸とも受け止められかねないその態度にライダー中将はかすかに笑みを薄くし、すぐに大きな笑みでもってそれを隠した。
「けっこう! ではさっそくその若者たちの出来のほどを見せてもらいましょうか」
横浜港の沖合での漕艇競争は三本勝負となり、いずれも一期生選抜組が勝利した。
波の緩い湾内では、小田原兵学校のカッターは面白いように速度が出せる。
横浜駐屯のイギリス海軍のカッターとは構造が少し違うせいで周回時の回頭で大きく膨らむのが難であったものの、その不利を補ってあまりあるほどの速度が出せた。
こちらは士官候補生の選抜、相手は天下のイギリス海軍と言えども漕艇作業に長じているとは言い難い駐屯軍の水兵から選抜されたもの。
そもそも駐屯軍の業務として漕艇作業の頻度が高いはずもないから、訓練していたとしても毎日漕艇訓練に明け暮れていた小田原兵学校の選抜組に敵うはずもなかった。一本目の競争前まではどれほどのものか気を揉んでいた海野たちも、実力のほどを確かめた二本目からは気負うことなく勝負ができた。
体格の不利を覆して日本側が見事に勝利した午前中の漕艇競争のあと、中国艦隊旗艦「ペネロペ」に招待された昼食会を挟んで急遽、午後から漕艇競争が組まれた。
小田原兵学校の選抜組は午前と変わらぬものの、イギリス側は選手を入れ替え、「ペネロペ」の乗組員から選抜された士官と水兵による漕艇組で勝負と相成った。
こうして行われた午後の三本は二勝一敗でイギリス軍の勝利となる。
小田原兵学校選抜組は手を抜いたわけではない。体力も十分に残っていた。海野とペアを組む山田も一糸乱れず漕ぎ続けた。
それでも負けてしまったことに、あらためて本職の船乗りはやはり一味違うのだと選抜組のみなは思い知らされた。
敗北に打ちひしがれている兵学校生徒の一方で、イギリス軍の将軍や士官の表情も(勝利を喜んではいるものの)どこか晴れない。ただ柳川教官だけがひとり、愉快そうな笑みを噛み殺したような微妙な顔をしていたのを海野は見逃さなかった。
一勝一敗の引き分け、本職の海軍軍人としては負けという認識で小田原に帰還した選抜組を待っていたのは、居残り組の質問攻めだった。
どのような勝負だったのかをとにかく聞き出そうと四六時中張り付かれて、話好きな鷲尾ですら音を上げるほど。
そうしてまたたく間に一週間がすぎると、兵学校に平静が戻り、ふたたび学科も含めた教練が再開される。
アーチボルド教官がgentlemanshipと言わなくなったのを除けば、いつもの日常が戻ってきた。
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