第62話 説け! のんびり隠居生活の素晴らしさ!

「邪悪になったり、殺したりしたければ、お前は一人で新しく『物語』を始めろ。『仲間に裏切られてすべてを失った元勇者が、裏切り者を殺して勇者に返り咲く物語』とか、そんな物語をな」


 適当にあしらってやるなり、アンジェが「ぷぅ~!」とむくれた。


「不服か?」

「不服だ!」


 そうか。


「俺はかつて、苦しみと絶望に満ちて慈悲と博愛が欠損した不完全で歪んだこの世界を正そうとした。天の下に起こることをすべて知ろうと、熱心に探究し、知恵を尽くして調べ尽くした。そして、太陽の下に起こることをすべて見極めた……だが、どれもみな空しく、風を追うようなことであった」


 不完全な世界の歪みは直らず、日増しに増え続ける欠損を数えることは不可能。


「かつて世界に君臨した者どものすべてに打ち勝って、俺は力と智慧を深め、真に大いなる者となった。しかし、力と智慧と知識を深く見極めたが、熱心に求めて知ったことは……結局、力も智慧も知識も狂気であり、破滅を纏う愚かさにすぎないということだ」


 智慧が深まれば悩みも深まり、悩みが増せば痛みも増す。

 なぜならば、この世界は『不完全で歪んだ場所』だからだ。

 ここでは、善良で健全であろうとすればするほど、病んで弱って狂っていく――。


「では、逆に、獣のように欲の快楽を追ってみればどうだろう? 骨の髄まで快楽に蕩ける愉悦に浸ってみよう……だが、肉を満たす行為は、ただひたすらに空しかった」


「何の話だ? また難しい話か?」


「難しい話ではない、幸せについての話だ――この天の下に生きる短い一生の間、何をすれば幸福になるのかを見極めるまで、肉で腹を満たし、酒で心を満たし、爛れた愚行に溺れて、堕落に身を任せてみよう……」


 俺もかつては、欲の海で溺死した衆生の王のように愚かだった。


「歯向かう者ども全てから簒奪し、多くの屋敷を構え、庭園や果樹園を数々造らせ、さまざまな果樹を植えさせた。池を幾つも掘らせ、木の茂る林に水を引かせた。買い入れた男女の奴隷に加えて、家で生まれる奴隷もあり、かつて、地に住んだ者の誰よりも多く侍従を得て、牛や羊と共に財産として所有した。金銀財宝を蓄え、国々の王侯が秘蔵する宝を手に入れた。人の子らの喜びとする多くの見目麗しい男女を揃えて側に置いた」


「今の無職のごく潰しの姿からは、まったく想像ができんが……一応、魔王らしいことをしていたのだな」


「偉大なる魔王は、かつてこの地に蔓延り栄華を極めた者の誰にも勝って、大いなる者となりて、とこしえに君臨した……目に望ましく映るものは、何ひとつ拒まず手に入れ、どのような快楽をも余さず試みた。どのような労苦すらをも楽しんだ」


 しかし……。


「しかし、この手の業、労苦の結果のひとつひとつのどれもが空しく、風を追うようなことであった。太陽と月の下に、益となるものは何もない」


 この世界には『すべてがある』が、その実は『すべてない』――。

 本物なんてなにもない。すべてが偽りなのだ。本物を真似るまがい物なのだ。

 結局は、すべてが煌めくばかりに退屈な幻だ――。


「知恵を英知を、狂気と愚かさを見極めようとした……しかし、賢者も愚者も等しく同じ、一時だけの栄華。瞬きを終えたころには忘却され、永遠に記憶されることはない。やがて来る終わりの日には、すべて忘れられてしまう……結局、なにをしたとしても、最後は賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか」


 嗚呼……なんと虚しいのだ。すべてがあって、すべてがない。


「俺は生きることをいとう。太陽と月の下に起こることは、何もかもが俺を苦しめる。どれもみな空しく、風を追うようなことだ。太陽と月の下でしたこの労苦の結果を、すべていとう。まことに、太陽の下で肉の苦しみに耐え、月の下で心を疲れさせてみたとて、何になろう。『世俗の不愉快な出来事に対する復讐』など、いわんやだ」


 これだけ言って聞かせてやれば、復讐などという面倒事をやる気も失せるだろうよ。


「……よくわからんが、『暗い話』ばかりではないか。『幸せについての話』ではなかったのか?」

「最後まで黙って聞いていろ。偉大なる魔王様が、戦うことしか知らない愚かな貴様に、人生の幸せという『掴みようもないものの本質』を教えてやっているのだ」


 まったく、話すら最後まで聞けないのか……本当に愚かな小娘だ。


「りんごをやるから、最後まで大人しく話を聞いていろ」


 俺は立ち上がると、庭に生えているりんごの木から赤い実を摘み取り、アンジェに投げてやった。


「甘いっ!」


 りんごを手に取った瞬間、一切の躊躇いなく食いやがっただとッ!?


「一瞬で喰うな! 俺が話し終わるまで、ゆっくり味わってもぐもぐしていろッ!」


 どんだけ、食に対して貪欲なのだっ! まるで、知恵無き獣ではないか!


「人間にとって最も良いのは、勝手気ままに飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させることだ」


 木から、もう一個……いや、二個りんごをもぎ取り、アンジェに投げる。

 両手がふさがっていれば、少しはおとなしくしているだろう。


「もぐもぐ、どういうことだ?」

「どうもこうも――『好きなものを食べて、適当に小銭稼げ』ってことだよ。人間にとって最も幸福なのは、『適当に楽な仕事しながら、のんびり一生を送る』ことだ」


 単純明快でありながら、真理に到達した言葉だ。


「それだけか? もぐもぐ」

「それだけだ。奇しくも、俺とお前が、『世界の命運を左右するような大きな物語』から降りて送っている『下町スナックでのしょっぱい隠居生活』と同じだ。素晴らしき、家給人足なり」


「かきゅうじん? もぐもぐ。どういう意味だ?」

「『かきゅうじんそく』ってぇのは――『衣食住足りた環境で送るほのぼのした隠居生活サイコー!』ってことだよ」


 などと、のんびり隠居生活の素晴らしさを説いてやる。


「な……なんてやつだっ!?」


 すると、なぜかアンジェが戦慄した顔をしやがった。

 どういう反応だよ!?


「暴虐と悪徳を好み、ありとあらゆる悪をなす人類の宿敵――それが魔王だったはず……だが、私の目の前にいるのは、まぎれもなく筋金入りの無職のごく潰しっ!」


 はあ~?


「お、お前……本当に、あの恐るべき人類の敵『魔王カルナイン』なのか……?」


 意味わからん、バカには付き合えん。


「おい! どこに行くのだっ!?」

「散歩だよ」


「待て! 私も行くっ!」


 街に繰り出そうとするなり、アンジェがついてきやがった。


「はあ? なんで、ついてくんだよ?」

「なんかおごってくれっ! 前に約束しただろうっ!?」


 なんかおごれだとぉ~っ!?


「お前……俺のことを『何だと思っている』のだ……?」

「『職場の先輩』だと思っているが?」


 なんとも……環境に適応するのが早い奴だ。

 バカの美点である素直さが、こいつを破滅から救っているのかもしれないな。


 おそらく……りんごを食ったあたりで、復讐の話など忘却しているに違いない。

 こいつの頭のなかは、あまい、じゅーしー、もういっこたべたい、ぐらいだろう!


「な~んや、お二人さん。メイちゃん抜きでデートかいな?」


 どこからともなく、メイまで現れた。

 なんなんだよ、まったく。


「デートでもなんでもねぇ、俺は一人で散歩したかったんだよ」


「寂しい男やな~。しゃあない、親切な美少女メイちゃんがご一緒したるわ。デート代は、おまはんのおごりやでっ!」


 メイがにやにやしながら、俺の背中を叩く。


「なにぃ! メイ殿だけ、おごられてずるいのだっ! フール、私にもおごれーっ!」


 な~んだ、このパッとしねぇ青春みてーな茶番はっ!?


「勘弁してくれよ……」

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