青菫 03

 キュカに着せたいドレスのデザインは次々生み出されるので、元々ストックはある。

 けれども、両想いブーストが掛かっている今、インスピレーションが凄まじい勢いで湧いてくる。婚約披露の時に着せたいドレスのコンセプトは、今まで彼女に作ってきたドレスよりも少しだけ大人っぽく背伸びしたものをチョイスしたい。刺繍の配置にも気を遣う。

 一時間ほど無心でクロッキー帳にガリガリ書いては余計な線をパン屑で消し、三つばかり違うタイプのデザイン案を三面図まで描き出した後、早速型紙の作成に入った。

 ヴァージニアではパタンナーを雇っていないが、レナート、エリザベス、ノーラ、シャノンは三面図さえあれば型紙も自作出来るので問題ない。四人出来るのだから、ミリーには急いで覚えてもらう必要もなく、仕事の合間に勉強してくれれば良いと伝えてある。

 寧ろシャノンは三面図というものを雇われるまで見た事がないらしく、簡易的な構造の衣服なら三面図なしで雑だがそれっぽい型紙を作ってしまえると宣ったのだから、面接の時は驚いた。

 勿論、商品には使用出来ないくらいお粗末なものだけれど、庶民の部屋着や普段着程度ならその雑さで作っても着られれば良いレベルで問題ないので、仕事と言うより生活に根付いた特技と言えよう。

 シャノンは布卸問屋の惚れっぽい息子が一目惚れする程度には中々の美少女だが、下町育ち――それも多分、あまり治安が良くない地域と憶測している――らしく、言葉遣いはあまり丁寧ではないし所作も貴族女性を見慣れたレナートからすれば割と雑だ。

 ただ、針子として仕事中に触る布や糸の扱いなどは流石にちゃんとしているし、裁縫の腕前も問題ないのでレナートは特に問題視していない。

 三種類の型紙を作り終える頃には夕方になっていた。


「そろそろ五つの鐘が鳴る頃ね。皆、キリの良いところまで出来たら片付けちゃいなさい」


 レナートの呼びかけで、各々裁縫箱に愛用の道具を片付けていく。

 レナートやエリザベスも似たようなものだが、ノーラは流石過去にメゾンで働いていただけあって、古びているが手入れの行き届いた、専用の大きな裁縫箱を所有している。中にたくさんものが入る分、便利だが重いので、初日に持って来て以来、普段は店に置きっ放しにしている。

 家で繕い物をする時は、大抵本格的ではなくボタン付けやほつれを直す程度なので、街の雑貨屋で売っているようなソーイングセットで事足りるから問題ないのだと言う。エリザベスも同じく。

 一方、ミリーやシャノンはそれこそ雑貨屋で必要最低限の道具だけを買って適当な箱に納めて今まで繕い物をしてきたらしく、メゾンという本格的な場所で働くのはどちらも初めてなだけに、専門の裁縫道具一式を買い揃えないといけないのかと不安だったらしい。レナートは初給金から少しだけ差し引いて、ほぼ自腹で立派な裁縫箱ごと道具一式買い与えた。仕事で使うのだから、使い易くて質の良い道具でなければオーナーとしても困るので必要経費だ。

 その為、一年前に雇ったミリーも、三ヶ月前に雇ったシャノンも、どちらも同じメーカーの裁縫箱はデザインこそ違うが中身はほぼ同じ、新品みたいに綺麗な箱だ。裁縫箱のデザインはレナートが勝手に決めて勝手に買ったものだけど、ミリーもシャノンもピカピカでお洒落な裁縫箱の美しさに喜んでくれたので良しとしている。

 ちなみに、ミリーの裁縫箱は白塗りの地に飛び交う青い鳥が描かれたもので、シャノンの裁縫箱は木地に直接林檎やオレンジなど果物を描き、丁寧にニスを施したもの。中に納まっていた針山や鋏なども、一応違う色のものにして個別を図った。


「シャノン、旦那さん迎えに来てるよー」

「えっ、もう!?」


 ドアベルの音が鳴ったと思ったら、エリザベスの声が階下から響いて来て、シャノンが慌ててエプロンや袖口に付いた糸くずを払い落とす。


「掃除はやっておくから、シャノンちゃん、もう帰りなよ。旦那さん、待たせるのも悪いでしょ?」

「いえ、まだ五つの鐘が鳴ってないし、ちゃんとやります。早く迎えに来るダニィが悪い」


 かつて酒飲みの夫から暴力を受けていたミリーは、シャノンの夫を「愛情深くて良い旦那さん」と思っているらしく、少しだけ眩しそうに若い同僚を見る事がある。

 毎日、こうして定時になると夫が迎えに来るので、シャノンの夫は相当愛妻家だとレナートも感心している。ミリーからすれば自分の元夫とはまるで違う分、羨ましさもあるのだろうが、同僚の夫が自分の元夫のような男ではない事、幸せな結婚をして幸せな夫婦生活を送れている事を、「良かった」と心から安心して見守っているようでもあった。


「じゃあ、アタシちょっとダニエルさんとお話でもして来ようかしら。――あの人、鋭くてちょっと危険な感じがするところがまた、イイ男よねぇ」

「キュカ様と両想いになったって浮かれた口で、あんな事言ってる」

「本当に同性は恋愛対象外なんでしょうか…」

「それな」

「アンタ達、聴こえてるわよ」


 寧ろシャノンはダニエルの妻のくせに「それな」で済ませて良いのか。

 もっとも、レナートだって別にダニエルにコナ掛けようなんて思っていないから、安心してくれて良いのでその反応は決して間違ってはいないのだけど。

 階段を降りると、エリザベスが刺繍を終えた分の小物を商品として綺麗に折り畳み、透明の袋に入れて陳列している最中だった。ダニエルはいつも通り、客用の椅子に座っている。


「私、使った布とか糸、上の棚に戻しとくね。ダニーさんの相手ヨロ」

「判ったわ。店番も有難う」


 レナートと入れ違いにエリザベスが裁縫箱の取っ手を持ち、片手に刺繍糸の束を抱えて軽快に階段を昇っていく。


「ご苦労様、ダニエルさん。シャノンは今掃除中なので、もう少しお時間掛かると思うわ」

「否、構わねぇよ。今日はちっと、早く来過ぎた」


 切れ長の目に軽く撫でつけただけの髪型。生成りのシャツは軽く腕まくりして、鎖骨の覗く胸元は艶めき、微妙に肌を見せているところがまた、男の色気と危険な匂いが両立している。

 見た目だけなら儚げな美少女のシャノンの夫のダニエルは、如何にも裏社会に居そうな男である。貴族社会にも稀にこういった雰囲気の男は存在するが、大抵は品良く隠しているものだ。しかしこの男は違う。隠し切れていない。そっちの気はないが、レナートも相対すると、同性なのにゾクゾクする。抗い難いニヒルな魅力のある色男なのだ。

 メゾンの客層にも貴族男性にも、あまり……というか、滅多に接触しないタイプの人間である為、新鮮なあまりインスピレーションがドバドバ湧き出て来る。こういった悪い男にこそ似合いそうなジレやスーツのデザインが浮かんでくるので。そういう意味では、新たなイメージの泉として、レナートはシャノンの夫と顔を合わせるのが楽しみだったりする。


「それにしても、店長さんと話をすんのは久し振りか?」

「そうね。アタシ最近、仕事部屋に籠りきりの時が多かったし。たくさん注文して下さるのは嬉しいのよ、忙しいって有難い事だわ」


 独立して王都で小さなメゾンを建ててオーナーを始めたレナートにすれば、一ヶ月の注文数がたった三件だった駆け出しの頃に比べれば、従業員にちゃんと生活出来るレベルの給与を渡せて、毎日朝から針を動かさないと追い付かないくらい仕事が舞い込む状況は、忙しいけれどやりがいもある。


「ダニエルさんも毎日迎えに来るなんて熱烈ねぇ。この辺りは王都の中でも治安の良い方だと思うんだけど」

「そんな事ぁ知ってる。気持ちの問題だ」

「そうね。――そうそう、アタシ、恋人が出来たの!」


 早速本題に入る。


「恋人?」

「えぇ。とっても可愛い子なの。…ずっと好きでね、でも彼女、アタシの弟の妻になると思ってた子だったから……まさかこんな事になるなんて」

「…店長さんの弟? つーと、あの、有名な騎士団長の次男で王太子様の側近だった…」

「そうなの。マティアスって言うんだけど、この子がまた良い子で。……でもあの子もあの子で、他に好きな子が居たらしくって。ビックリしたわね、アレクサンダー様の婚約者だったロザンナ様に求婚したなんて聞いた日には。寝耳に水だったわよ」

「そうか。……アンタ、恋人が…。……男じゃねーんだな」

「ダニエルさんまでそれ言うの…」

「シャノンもそう信じてたし、俺もてっきり…その、男が好きなのかと」

「この言動は、こうした方が楽だったのよ、色々と。――俺が素に戻して、ミリーが怖がらないでくれるなら、戻しても良いかな、って思ってるけど」

「ミリーさんの事は、俺もシャノンから少し聞いてる。随分と酷ェ旦那だったそうで」

「そうね。でも、だからこそ、次にあの子が誰かに恋した時は、本当に優しくて良い男でありますように、と願うしかないわ」


 ミリーは自分やエリザベスと同世代の女性だ。一度目の結婚で失敗したが、幸いと言うべきか子は居ないし、充分若いし、人生をやり直せる。恋をしなくても、愛を育む事は出来る。諦めるにはまだ早い。


「誰か知り合いに、そういう、良い男居ない? 男性恐怖症のあの子に根気よく付き合える、優しくて余裕のある人が良いと思うんだけど、どう?」

「俺の知り合いは、皆イイ男だと思うけど、「良い男」かっつったら首を傾げるところではあるからな…。あんまロクでもねぇ育ちのヤツしか居ねぇから」

「そう…。別に、育ちがロクでもないからって、心根まで腐ってる訳じゃないんでしょ? ダニエルさんが「イイ男」だと思うなら、やっぱり相当イイ男でしょうし」

「そりゃぁな。……お、噂をすれば」

「あら」

「ダニィ、来るの早いよ」

「こんにちは、ダニエルさん。店長も、今日はここで失礼します」

「はい。気を付けて帰るのよ」

「ダニィ、聞いた? レナートさん、婚約するんだって」

「婚約がもう決まってんのか? 恋人が出来たとしか、聞いてねーけど」

「まだ婚約は正式に決まってないのよ。――もっとも、これは実家じゃなく王家から打診された縁談だから、両家が反対する訳ないと思うからほぼ確定だろうけど」

「それなら良かったじゃねーか。ずっと好きな子だったんだろ?」

「そうよ。…もう八年になるのねぇ。十七のアタシが知ったらきっとビックリするわ」

「八年…」

「十七って言ったか、今…」


 しまった。八年前に当時十歳だったキュカに恋に落ちた事をうっかり呟いてしまった。

 弟の婚約者(?)に横恋慕という事実だけでも重いのに、八年間もひっそり片想いだったとか重過ぎでは。


「あっ、その、今のは内緒にして頂戴!」

「「……判った」」


 慌てっぷりからガチだと判断されたらしく、若夫婦が顔を見合わせた後、神妙な顔で頷いてくれたのがまた心に突き刺さる。



「レナ君、久しぶり! 随分髪伸びたね。キュカと婚約するって聞いたよ。何て言ったら良いか判らないけど…、取り敢えずおめでとう。有難う」

「ロベルト…」


 数日後。手紙が届いたらしい両親から、「正式な婚約を調えるから、一度帰って来なさい」という返事が来た。

 そうして数年ぶりに訪れる実家に赴けば、そこにはキュカの兄――ロベルトも来ている。

 キュカと同じく青黒髪に蒼い瞳のロベルトは、キュカとは五つ違いなのでレナートからすれば二つ年下だ。


「久しぶり…。ロベルトも、元気そうで良かった、わ…」


 普段の口調にするべきか、かつての口調にするべきか。迷って中半端な言葉遣いになってしまった。


「まぁね。騎士は身体が資本だし、うかうか病気もしてられないよ」


 カラッと朗らかに笑う姿からは、中々婚約が決まらない妹を案じていただろう憂いを微塵も感じさせない。そういう負の感情を押し隠し、微笑みで周囲を和らげるところは、やはり兄妹、似ている。


「俺はキュカがレナ君にずっと片想いだった事は全然気付かなかったけど、マティは知ってたんだってさ」

「そうみたい、だね」

「俺、アイツの兄貴なのに目が空洞だったのかな。今まで何見てたんだろ…」

「そ、そんな事ない、よ。俺だって全然気付かなかったんだし」

「さっきから何か口調がおかしいんだけど。喋り難い? いーよ、普段通りで。キュカなんて、レナ君が女性服専門のメゾンのオーナーになった途端、急に「レナちゃん」って呼ぶようになったしさぁ。ヴァージニアの店長が女性言葉で喋るってのは、もう風の噂で王都の人間なら殆ど知ってると思うよ。レナ君の話し易い方で喋って」

「あ、そういう訳では、ないのよ。……ないんだ。うん。本当に」


 我ながら説得力がなさ過ぎる。

 ただ緊張しているだけなのだ。勘当同然に家出をした身からすれば、数年ぶりの実家というのは。

 かつては毎日ここで暮らしていたのに、どうにもよそよそしくて居心地が悪い。けれど確かに懐かしく、「帰って来た」という安堵も覚えるのだ。不思議な感覚。


「緊張してる? まぁ、無理もないか。レナ君にとっては卒業して以来だから…七年くらい帰ってないんだもんな」


 王家からの斡旋で決まった婚約だ。そう簡単に破談にも出来ないしならないし、酒の席の口約束とはまるで違う、本格的な契約となる。

 アルフレートの名前で婚約用の上等な羊皮紙の書類が送られ、当主同士が王家から証人として派遣されてきた立会人の見届ける中、直筆でサインをして、書類を立会人に確認してもらう。そこにはキュカとレナートの直筆のサインも書く欄が設けられており、婚約するのが初めてな二人は「思ったより本格的…」と緊張の度合いが増して思わず羽ペンを持つ手が震えてしまったほどだが、後数年もすればこれも笑い話になっている事だろう。

 ただ書類にサインするだけなのだが、大仰な手続きで婚約が正式に結ばれると、立会人は事務的に書類を丸めて筒に入れ、いともアッサリした風情で去って行った。それを厳かに見送ってから当人達は「はあぁ~~……」と緊張の糸が切れてその場で脱力してしまった。「立会人との温度差が凄い」と後にロベルトは語る。

 レナートはほぼ喧嘩別れに近いかたちで家を飛び出したのもあり、気まずさはある。けれどそれは騎士にならないと言われて激昂して勘当みたいに追い出した父親も同じで、用事も済んだし帰ろうとするレナートを不器用な言葉で引き留めようとするから、ロベルトとキュカはすかさず騎士団長の援護に回った。

 レナートが父と和解出来るよう、ロベルトは勝手知ったる幼馴染の家とばかりにキッチンメイドに酒や肴を頼みに行き、キュカはレナートが逃げられないよう、そっと右腕に自身の両腕を控えめに絡ませてカウチソファに一緒に座り、さり気なくレナートの腕に寄り添って世間話を始める。

 程好いタイミングで運ばれて来る酒と肴、そして会話に挟まれるメゾン・ヴァージニアの話題。

 キュカは毎シーズン新しいドレスを注文しに行くお得意様だから、ヴァージニアの評判や仕事振りもたくさん話のネタがある。婚約者の父が知りたくて仕方ない事を、息子の口から直接聞きたい事を、レナートの代わりに押し付けがましくない範囲で、そっと小さなお菓子を置いて行くような親切で安心させていく。

 隣でモソモソとカプレーゼを食べながら、そんなキュカの労わりに胸が熱くなる。キュカはいつだって優しい。

 本当は自分から話さないといけない事だと判っているけれど、「騎士になりたくない」と言った時の父の愕然とした表情、追い出された時の激しい怒号を覚えているから、成功して見返してやりたくて、その目標は恐らく殆ど叶っているはずなのに、いざ彼を目の前にするとそんな負けん気も萎んでしまった。

 騎士団長の責務に忠実な父を愛していたし、騎士という職業に敬意もある。騎士になっていたかもしれない自分も、恐らく悪い未来ではなかった。ただ、騎士よりももっとやりたい事があっただけ。

 手塩にかけて育ててくれたのに、それを放り投げて別の道に進みたいと我が儘を言った息子に、怒りも悲しみもあっただろう。それなのに、本当の意味で勘当はされていなかった。失敗しても、いつでも帰って来られるように。そうじゃなければ、とっくに貴族名鑑から除名されていたはず。

 ――いつまで年下の女の子に甘えているのだ、自分は。


「あの…父上」

「……何だ」

「俺、騎士にはならなかったけど、皆を笑顔にする職業に就いて、やりがいがあって、今は凄く楽しい。騎士にならなかった事は後悔してないけど、騎士になりたくなかった訳でもなくて…。幻滅させたのは……申し訳ありません」

「それは…もう、いい」

「……」

「…ちゃんと、お前が元気で、健やかで、生き甲斐を見付けて働いて過ごしているなら、それが一番だろう」

「!」

「俺も意地を張った。お前は文武に優れてよく出来た嫡男だったから、成長が嬉しかった。騎士になってくれると信じて疑わなかった。それ以外の道を進むお前なんて、考えた事もなかったんだ。……だから、今の道を選んで正解だと言うのなら、これからもお前は一つの店を持つ主として、部下…否、従業員達をよく面倒見て、精進しなさい」

「……ッ、はい…!」


 寄り添いながら、不安げにレナートのたどたどしさを見守っていたキュカが、ホッと安堵したのが判った。心配させた事に若干の申し訳なさと、彼女の意識が注がれている特別感への歓喜が渦巻く。情緒が忙しい。

 ……それはそうと、実はずっと片腕に胸がふんわり押し付けられている状態なので、少しでも気を抜けばその柔らかさに思考が埋められてしまう。

 ましてレナートは採寸こそした事はないが、キュカのドレスを一番作ってきているので、こまめにエリザベスが採寸し新しく上書きしていくキュカの身体のサイズなら詳しい。当然、ここ一年の間に、バストの成長が著しい事も数字で知っている訳で。

 果たしてこの状態、天国なのか生殺しなのか。紙一重で実に気が抜けない。



 婚約ついでに実家との和解も終え、これからは実家にも気兼ねなく出入り出来るようになったレナートは、仕事とドレス制作に没頭した。

 来る婚約式でキュカに着せるドレスがとうとう完成した時、徹夜の上夜明けだったのでそのまま作業部屋で寝落ちしてしまい、出勤して来たエリザベスに「自分の部屋で寝ろ」と叩き起こされ、三階に追い立てられた。出したままの針などは、後で片付けてくれたらしいので文句も言えない。

 ピオニーピンクに映える菫の刺繍は、最新だという例の黒糸を使い、シックに、大人っぽく仕上げた。青みがかった黒と紫がかった黒で二種類の菫を刺し、周囲を違う色糸の幾何学模様でさり気なく飾る。

 その日に合わせて着る自身の礼服も抜かりない。何せ黒い布は流行だからこそ潤沢だ。

 キュカの刺繍が目立たなくては困るから、光沢が控えめで美しいマットな黒い布でフロックコートを作り、ダブルベストやスラックスにもさり気なく同じ黒糸で菫を配した。

 彼女のドレスの色と揃いのリボンで銀髪を結い、手袋を嵌めた手でゆっくりキュカをエスコートする。

 実家の広々とした玄関ホールで行われる婚約式。流石に多忙で王太子のアルフレートは出席しなかったが、クローネが彼の名代として参加している。

 次期王妃となられるクローネの出席。そして此度の婚約式の差配を一手に引き受けたのはアレクサンダーの元婚約者だったけれど、今は跡継ぎの妻になったロザンナだ。話題性は充分だし、キュカの交友関係の凄さも一発で判る。


「ご婚約おめでとう御座います。キュカさん、レナート氏」

「有難う御座います」

「有難う御座います」


 クローネの刺繍の見事さは噂になるほどだから、テーラーとして純粋に興味がある。作品の実物を是非拝見してみたいものだと思いながら如才なく挨拶すると、クローネにも社交用の笑みを向けられながら、「素敵な刺繍ですね。腕の良い針子がいらっしゃるのですね」と褒められた。


「有難う御座います。キュカのドレスは一から全て自分の手で製作しました。刺繍も勿論、自分だけで刺しています。クローネ様は刺繍の腕前が素晴らしいと評判なので、そんなお方からお褒めに与って光栄です」

「特に菫をそのまま刺すのではなく、他の意匠と上手く組み合わせて子供っぽくならない図案に仕上げているのが良いですね。この糸、黒かと思ったら近くで見ると光の加減で艶が青だったり紫だったりして、とても興味深いです。こんな色の糸、あったでしょうか」

「新色の糸を使いました。最近、行きつけの製糸工場で新しい染色技法を試しているそうで、こちらはその成功例なのだと…。まだ数を多く作れないらしくて、他の刺繍糸に比べて割高なのですが、黒の表現が幅広くなりますし、黒はこの先、もっと流行るでしょうから、多少無理してでも早く使って、皆の関心を惹き付けたいという意図もあります。そうすれば生産率も上がるでしょうし、他の工場も競って同じような糸や布を作ろうと技術を上げるので」

「確かに。…でしたら、その黒い糸の工場を教えて頂けます? 買い占めはしません、キュカさんのドレスに使われた新色の糸が気になって、少し取り寄せてみたいのです。丁度アル殿下に依頼されて、新しいシャツを作るところでしたの。私が戻って来たので、黒い服をまた着るようになったアル殿下の普段着に、その糸を使ってみたいわ」

「……!」


 凄い大物が喰い付いて来た。さしものレナートもここまでの大物が釣れるとは想定しておらず、にこやかな笑顔を保ったまま背中に一筋の冷や汗が流れる。

 王太子妃が確定している、刺繍がとびきり上手いと評判の令嬢が新色の糸をわざわざ取り寄せて婚約者の普段着に使うという。その婚約者は王太子で、その糸を知ったのはキュカが着たドレスからで、そのドレスを作ったのは、メゾン・ヴァージニアのテーラーで。

 上手く話題になれば、王家御用達にもなるかもしれない可能性を秘めた黒糸。それと同時に、キュカのドレスも、その糸を使ったレナートの店ももっと評判になる。


「…クローネ様は、シャツを作れるのですか?」

「私、行方不明であった時期が四年ほどありますでしょう? その時に少々、簡単な服を作るくらいの技術は会得したのです」


 口元を扇で隠しながら、ふふふ、と品良く笑うクローネは一見するとただの美しい令嬢にしか見えないが、中々どうして。

 純粋に刺繍を嗜む者として新色の糸が気になるのもあるだろうが、貴族の嫡男であっても家督を弟に譲り、跡を継がない男の妻になるキュカは、今後貴族社会で生きるには夫の立場が微妙な分、苦労も多くなる可能性はある。

 それを見越して、キュカの夫になるレナートが万が一でも路頭に迷う事のないように、今後も安定した収入を得られるように、王家からも依頼があるメゾンのオーナーだと王都中の人間に浸透するように。メゾン・ヴァージニアが今以上に貴族から注目を浴びるように取り計らう心積もりなのが、透けて見える。

 どういった経緯で伯爵令嬢に過ぎないキュカが公爵令嬢で学年も違うクローネにこれほど目を掛けられるに至ったのか存じないが、キュカに恩でもあるのだろうか。何にせよ、随分とキュカに良くしてくれるようなのは、正直言えば有難い。

 夫となる身からすれば、ロザンナが義妹というだけでも心強いのに、王太子妃となるクローネの援護がある状態なんて、心強いを通り越している。今後アルフレートの失態でもない限り、キュカの立場は安泰だろう。


「そうでしたか。服まで仕立てられるなんて、クローネ様は噂以上に刺繍のみならず、縫い物がお得意なのですね。でしたら是非、お時間のある時にでもヴァージニアにいらして下さい。あの辺りは製糸工場だけではなく布の卸問屋も幾つかありまして、きっと楽しんで頂けるかと」

「えぇ。今は少し時間を捻出するのが難しいのだけど、是非そうさせて頂くわ。…それではキュカさん、また後で。個人でもお祝いさせて下さい」

「え、あ、有難う御座います、クローネ様」


 ずっと腕に寄り添い、会話に口を挟まず慎ましくしていたキュカは突然名指しされ、けれどすぐに社交用ではない笑みを浮かべてクローネに頷く。

 随分と打ち解けているようで何よりだが、如何せん大物過ぎて心臓に悪いので、後でキュカの交友関係をもっと詳しく聞いておく必要がありそうだ。

 レナートは脈が速くなった心臓を宥めるように、そっと胸元を撫で下ろしながらそう思った。

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