番外編
青菫 01
小さくて目立たなくても綺麗な色が甘く匂い立つから、すぐ判る。
普段はベッドテーブルに、木彫りの置時計と並べて大事に飾ってある白いウサギの首元に結ばれたピオニーピンクのレースリボンは、レナートにとっては御守のようなものだ。
この美しいリボンをふわふわの可愛いウサギごと、当時十七歳になる騎士団長の長男の誕生日に笑顔で贈ってくれたのは弟の幼馴染の伯爵令嬢で、レナートにとっても可愛い妹みたいな女の子。
「キュカ」と呼ぶと、「なぁに?」と大きな蒼い瞳で見上げてくる、青みがかった艶が美しい黒髪のポニーテールがよく似合う弟の婚約者。――だと思っていたのに、厳密には違ったらしい(血縁でもない幼馴染なのに「ただの姉弟」って何!?)。
調子が出ない時、スランプの時、成功させたい商談の時……いろんな場面で、レナートはウサギから借りたリボンで己の銀髪を結い、自らを鼓舞し、奮い立たせてきた。
半ば勘当同然に実家を飛び出して、憧れの美しい服や布小物を作る王都有数のメゾンで名の知れたテーラーである男の元へ押し掛けるように弟子入りしたレナートは、弱った時に慰め、支え、檄を飛ばしてくれる優しい家族も、親しい友も、実家と共に置いて来てしまったから。
心身の安寧や無聊を慰めてくれる存在――恋人を、作ろうと思えばそう難儀せずに作れただろう。女性的な言動を封印して普通の男性らしく整えれば、それこそ思い立ったその日の内にでも。
筋骨隆々で勇ましい騎士団長の父よりも、玲瓏で嫋やかな美女である母の方に似たレナートは、騎士として育てられた分丈夫で逞しいしれっきとした男性であるものの、どこか女性的な麗しさを備えていて、有体に言えば「綺麗な男」であるから。
疲れた時に甘やかしてくれて頼られたい時に甘えてくれる可愛い恋人を、その気になればさほど苦労せず作れるだろう自分が、それでもそういった存在をあえて作らずに歯を食い縛るようにして、脇目も振らず我武者羅に頑張ってきた。手っ取り早くふわふわした甘い誘惑に浸るより、ハングリーな環境に身を置く事でそれだけに集中出来るし、早く独り立ちしたかったから。
王族と違って世襲制という訳ではないから、騎士団長の息子だからと将来騎士団長にならなくてはならないという訳でも、ましてやなろうと思って簡単になれる訳でもないけれど、「騎士団長の息子だから騎士になるのは当然」という暗黙の了解みたいな雰囲気は物心付く前からあって、その立場や家督を全て七つも年下でまだ幼い弟に押し付けてしまったからこそ、一日でも早く身を立てたかった。
騎士という道を選ばなかった自分が、やりたい事を選んだ自分が、多少の挫折を覚えたくらいでメソメソ逃げ帰る訳にはいかない。
好きな道を採ったからこそいつまでも大成せず燻っていては、それこそ弟に申し訳が立たない。
その甲斐あって、こうして独立し、小さいけれど自分のメゾンを構える事が出来た。
店名は色々悩んだ末、「メゾン・ヴァージニア」に決めた。異国語で名付けたのは、「ヴァイオレット」と名付けたら、あまりにも直球過ぎる気がして、少し恥ずかしかったので。
可愛いもの、綺麗なものが大好きなレナートは、最初は針子も自分含め二人だけの状態で店をスタートさせたから、客層を絞る為に、ヴァージニアを女性服専門のメゾンとして始めた。
メゾンを始めるにあたり、経営者でもあるレナートは経理や仕入れも自分で行っている以上、どうしても製作だけに時間を割けない。そんなレナートと毎日せっせと布を裁断し針を動かしていた針子は元々師匠の弟子の一人で、俗にいう引き抜きで手に入れた。
お互い同じテーラーの下で切磋琢磨した戦友のような彼女は、当時はレナートより一つ年上のチャキチャキした若い娘でしかなかったが、今では立派なベテランで古株だ。
ただし、男女の仲になった事は一瞬たりともない。
彼女――エリザベスの好みはレナートというより、父やマティアスのような、一目で判るくらいガタイが良く雄々しい男なので。
もっとも、マティアスはレナートより体格に恵まれているものの父ほど肉厚ではなく縦に伸びている途中だし、若くて爽やかな分、父のように男くさい、雄々しいというよりはまだ、凛々しさ、人懐こさが勝って可愛い事この上ないが。――だってあの子、「兄上兄上」って元気いっぱい笑顔いっぱいで懐いて来て、大型犬みたいじゃない? 勿論、敵を前にしたら番犬どころか猟犬になるけど。
なよなよしくはないけれど、どこか繊細な容姿をした中性的な美貌のレナートはエリザベスの好みから外れている。なので、キュカにも潔白を誓える訳だが。
今では新しく雇った針子も三人増えて、オーナー兼デザイナー兼テーラーのレナートは元より、エリザベスの負担もかなり減った。それに伴い、女性服専門という看板を外し、少しずつ紳士服の注文も受けるようになったけれど。
そんなレナートの髪ではなく左手首に、御守であり精神安定剤でもあるピオニーピンクが結ばれたのは、恐らく初めての事。
レナートが仕事場として買い取った物件は面積こそやや小さめだが三階建てで、一階は布や糸などの材料保管スペースと応対スペース、二階は針子達の作業部屋、三階がレナートの住居となっている。
「どうしたの、レナ。いつもはそのレースで髪の毛結んでんのに」
古株であっても相変わらず新人より早く真っ先に出勤してくる働き者のエリザベスは、今日も始業時間より四十分以上早く来て、窓辺のトルソーに昨日仕上がったばかりの展示用ドレスを着せている。
レナートが伯爵家の男児だと知っているが、接し方はざっくばらんで気安い。レナートのバックボーンに委縮せず、さりとて下心ですり寄って来るでもない彼女のそういうサバサバした面は、同じテーラーに師事していた頃から気に入っている。
「おはよう、ベス。それ、新作のドレスね。もしかして昨日には仕上げてたの? 無理して仕上げなくても良かったのに」
「だって、こういうのは早い方が良いでしょ。――今年の流行りはやっぱりロザンナ様のウェディングドレスにも使ったマーメイドラインみたいだし。こういうの、若いお嬢さんにはちょっと大人っぽ過ぎるけど、人妻や未亡人には断然映えるわ」
「人妻って言い方、よしなさいよ。そこはせめて「夫人」にしたら?」
「何でよ。それを言うなら私だって一応「夫人」だけど、そんなお上品な呼称、ガラじゃないし」
エリザベスは一昨年の春、ずっと付き合っていた彼氏の熱烈プロポーズに根負けして結婚し、昨年には一児設けている。まだ乳飲み子である子供の面倒は、昼間は義両親に看てもらっているのだった。
確かに明るく元気、母となって一段と逞しさと図太さを増したエリザベスはハキハキしていて、人妻を丁寧に表す「夫人」という上品な呼び方は少々似合わないかもしれない。
眩しい朝陽が差す窓辺で新しいドレスに着替えたトルソーを見やる。
外から真っ先に目が行く窓際に展示するドレスは、シーズンごとに新しいデザインを起こして作る。あくまでもサンプルの一環なので売る事はほぼないが、試着は可能。長い時間陽に照らされても色褪せ難い、発色が良い生地で作る。シーズンが過ぎて次のドレスと交換した後は、針子達の間でジャンケンなり話し合いなりして、欲しい従業員に譲っている。いつも頑張ってくれているから、レナートからのささやかなご褒美のつもりで。
仕上がったばかりのドレスは、顔や胸元に装飾品をそれぞれ着ける事もあるだろうし、デコルテや肩の美しさを際立たせる為にも、上半身はシンプルなビスチェ風。ヒップラインもパニエで誤魔化さず、膝から下の辺りで緩やかに広がる長い裾。弟嫁のウェディングドレスは当然白で作ったけれど、このドレスはワインレッドに差し色を濃い紫で作ったから、中々妖しい雰囲気で色っぽい。
ダンスするには少々不向きだが、ダンスタイムがない気軽な会食やパーティーならば、スカートを膨らませるドレスの中で他とは違うラインのドレスだからこそ、さぞかし人目を引くだろう。マーメイドドレスは作例が少ない分、試行錯誤してウェディングドレスを作ったのだが、ロザンナには喜んでもらえたし、こうして評判になって注文が殺到したから、今年のドレスの流行りは間違いなくレナートが作ったと言っても過言ではない。
ロザンナはマティアスの横に立ってもバランスが良い。つまりそれだけ背が高くボディラインにもメリハリがあって、長身でがっちりした体躯の弟に寄り添っても中肉中背でひっそりとした野の花のような清楚なキュカよりは存在感で負けてない分、釣り合いが取れている。
顔立ちも華やかでゴージャスな上に美人なので、十代と言うにはやや大人びた外見の少女ではある。王国一番の美男子と名高いアレクサンダーと並んでも見劣りしなかった美貌の持ち主は、ルビーやスピネルを溶かし込んだような真っ赤な髪がよりあでやかで、あの髪やエメラルドのような瞳の美しさを際立たせ、尚且つスタイルの良さも生かすには、ボリュームのあるドレスよりもスッキリしたラインのドレスの方が似合うと思った。だから思い切ってマーメイドドレスにしたのだけど、これが大当たり。
王太子に婚約破棄された直後に弟に愛を打ち明けられたロザンナが結婚式に着たドレスは、彼女の魅力や持ち味を最大限に引き出していた。
十代後半、学院を卒業した、或いはする少女達にとっても、背伸びしたいお年頃。そんな時に、「令嬢の手本」と呼ばれし憧れの女性が今まで着た事のないドレスを着こなして幸せな花嫁として微笑めば――結果は推して知るべし。
メゾンの宣伝にも一躍買ってくれた高貴な花嫁は、公爵令嬢から伯爵夫人になったというのに、後悔するどころかいつでも安らかな微笑みを浮かべている。
マティアスはてっきりキュカと結婚するものだと思い込んでいたレナートにとっては青天の霹靂みたいな弟の結婚であったけれど、弟夫婦や当のキュカの様子を見れば皆幸せそうなので、何とも言えなかったのだけど。
「ちょっと、布の在庫を確認したくって」
「在庫ぉ? ……ははーん」
「…何よ」
「昨日、レナが半休取って午後から三階に引き籠ったじゃん。それに、昼下がりにキュカちゃんが遊びに来てたな~、とも思って」
「……」
「そのレースリボン、キュカちゃんに貰ったんだって、前教えてくれたじゃん?」
「……」
「もしかして…もしかしてだったり?」
「…はっきり言ってちょうだい」
ニヤニヤ笑顔で追い詰められると、どうにも据わりが悪い。
薄っすらと両頬にそばかすの散る、ロザンナとは系統の違う夕陽みたいな赤毛のエリザベスは、ニヤニヤしながらエプロンのポケットに手を突っ込み、何故か巻き尺を取り出して見せると。
「キュカちゃん可愛さのあまり、とうとう想いを打ち明けちゃったんじゃな~い? それでそれでぇ、キュカちゃんも同じ気持ちなのは見てれば判ってたしぃ、両想いになれた勢いのまま、ぶちゅっと熱ぅいベーゼをかましてぇ、長年拗らせた片恋が実った激情の迸るまま、キュカちゃんのあらぬところにレナの手が、こう…、「アタシの手で全部隅から隅まで採寸させて…。恋人以外触れちゃいけない秘めやかな場所まで……ね? 良いでしょ?」ってズルい大人の男の色気で陥落させて、「あ、だめ…そんなとこ触っちゃ……」って強く抵抗出来ないキュカちゃんの純情に付け込んで、好き勝手にさわさわ、」
「してないわよそんないかがわしい事!!」
「えっ、まだ告ってないの? マティ君とキュカちゃんの間には恋愛感情ないって判明したんだし、王太子の婚約者候補になったけど結局本物の婚約者のご令嬢が見付かって白紙になったんだし、キュカちゃんの縁談の相手候補にレナも選ばれたんでしょ。「好きだ! 結婚しよう! 子供はたくさん欲しいから早速今から子作りしよう! 大丈夫、天井の染みを数えてる間に終わるから……」しか言う事なくない?」
「黙って聴いてれば何なのアタシへのイメージ!! さっきからアンタ、アタシを何だと思ってるの!?」
「女っぽい言動してるだけのバリバリの雄」
「……」
酷い言いがかりに反論したものの、レナートのオネェな言動が処世術でしかない事を知っているエリザベスに間髪入れずにズバッと返されてしまい、レナートは巻き尺をこれ見よがしに見せ付けてニヤニヤする彼女にぐぬぬと唸った。とんでもねぇエリザベスだ。
そういう、巻き尺のみならず自分のアレとかソレとかコレとか(ドレだよ)使った、好きな子にしたい少々いかがわしい採寸は、R18に突入してしまうのでこれ以上は無理なのである。このお話は全年齢なので。全年齢なので。大事な事なので二回言うわよコンチクショー。
「まぁ、何だかんだ「女性を無暗に傷付けない高潔な騎士であれ」って育てられたようなレナだから、そこまではシてないにしても。顔見た瞬間、すっごく良い事があったんだ、って一発で判ったもん。キュカちゃんと両想いになった下りまでは、多分当たってるでしょ」
「……まぁ、そうね。うん、そうだけど。…ん? キュカの気持ち、ベスは知ってたの? アタシ全然気付かなかったんだけど」
エリザベスより自分の方が断然付き合いが長いはずなのに、十歳の頃からずっと好きだったと言ってくれたキュカの気持ちに、昨日まで全く気付かなかったレナートは愕然とした。
「判り易かった訳じゃないよ。キュカちゃん、必死で隠してたんだと思う。…ただ、まぁ、レナと顔合わせてる時のキュカちゃん、頑張ってレナの妹してる感じがしてさぁ。何と言うか、健気で見てられない感じがしてさぁ。――あ、好きなんだ、って。唐突に思い当たっちゃったと言うか」
あっけらかんと言われると、レナートも二の句が告げなくなる。
健気な片想いを必死で押し隠して、自分には昔と変わらない妹の顔で接して来たキュカを想像すると、もっと早く気付いてあげたかった、と強く思う。
マティアスと一緒に居ると姉ぶってはいたものの、幼い頃から仲が良く、二人はレナートから見てもお似合いで。だからてっきり、そのまま姉弟のような夫婦になっていくのだろうと思っていたのに。
「ピンク系の布は特にどの年代にも人気高くてたくさんあるから。私も探すの手伝ったげる。そんかし、皆が出勤してくるまでね」
メゾンに置いてある布在庫全ての端切れをサンプルとして貼り付けた生地見本帳をテーブルに置いたエリザベスが、「早くリボン解きな」と指示して来た。
何も具体的な事は言ってないのに、妙に察しが良くて先回りするから、頼りになるの半面、時々してやられた気分になる。
よちよち歩きの幼いレディから、ご年配のマダムまで。
ピンクという色は肌馴染みが良く、女性に受けの良い色でとにかく使い勝手が良い。色幅も広く、淡い貝殻のようなピンクから、牡丹のように妖艶な濃いピンクまで、実に様々。特に希望する色がない場合は、取り敢えずピンク系を選んでおけば無難だと言われるほど。その為、エリザベスが言う通り、どこのメゾンもピンク系の布は多種多様に買い取ってあるものだ。
手首に結んだのは、右手でページを捲って左手ですぐに確認が出来ると思ったからだが、二人で確認するなら確かに解いた方が早い。
普段は来客にお茶を出し、要望を聞きながらメモを取ったりサンプルを見る為の円テーブルと椅子。向かい合わせに座り、互いにリボンの両端を持って、ピンクだけで二冊ある見本帳をそれぞれ一冊ずつ開く。
「もしなかったら、今日買いに行くの?」
「うん。そうするつもり。勿論、仕事はちゃんとやるわ。今日は予約が二件入ってたわよね」
「うん、そう。アンタ目当ての火遊び好きな男爵夫人と、純粋にここのドレスを好きなお得意様の子爵令嬢」
「あー…あの夫人、いい加減諦めてくれないかしら」
「レナも悪いんじゃない? 上客だからって、如何にも靡きそうな態度取ってたでしょ、ヴァージニア出来たばっかの頃」
「それは今でも反省してるのよ…。あの頃は、とにかく一人でも多くお客様を取りたかったから、アタシも必死だったの。……夫人の対応、ベスにお願いしても良い? アタシ、その間に布問屋回るわ」
「了解。――まぁ、あの人の相手は私も慣れてるし。レナが居ないとガッカリするけど、ドレスはちゃんと注文してくれるしね」
パラ、パラ、と端切れを貼り付けた分、厚みのあるページを捲りながら二人してレースと何度も見比べ、結果、似た色は幾つか店にあるものの、「これぞ」と言えるピオニーピンクの布は、どうやら在庫にないらしい。
「そろそろ皆出勤してくる時間帯だし、理想のピンクはなかったみたいだし、取り敢えず頭の中、仕事用に切り替えてよね」
「判ってるわ」
パタンと閉じた見本帳を棚に戻して、レナートは伸びた髪をリボンで括り、作業用のエプロンを身に付けた。
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