06
「マティにとってキュカさんが「俺の姉のようなもの」って、そういう意味…」
「そうだよ。キュカはずっと兄上が好きだったんだ。だから俺は、どうせならキュカの夫より、キュカの弟になりたかった。やっと本当の義弟になれるみたいで、嬉しいよ」
膝に乗せた新妻の薔薇のような髪で手遊びしながら頬にキスをして、マティアスはニッコリ笑う。
新婚ほやほやの騎士団長の次男とその妻は、卒業後に騎士団に就職した夫の休日である本日、ソファでイチャイチャを楽しんでいる。
優しく愛し気に髪を撫でている手が、夜になると優しいのはそのままに、不埒な動きで新妻を翻弄するのは、当のロザンナだけが知る秘密だ。
人気急上昇中のメゾンのオーナーでありデザイナーでありテーラーでもある騎士団長の長男レナートと、伯爵令嬢キュカの婚約はあっという間に調って、とうとう彼らの婚約披露パーティーが行われたその翌日。
その披露目となった会場は、レナートの実家だったので、昨日まで女主人の義母の指示を仰ぎながら、嫁いで三ヶ月も経っていない若き伯爵令息夫人も差配を見事にこなした。
今日のマティアスは非番なのもあり、伯爵令息夫人として初めてホスト側の社交を過不足なくこなしてみせた新妻の仕事振りに感謝して、「ご苦労様」とめいっぱい甘やかすのだと昨夜から決めていた。そして今、現在進行形でそのまま実行しているだけの事。
「キュカさんにはお世話になったのだもの。今度こそ、キュカさんに恩返しするチャンス…!」
「ローザは何をするつもりなの? ドレスは無理だよ、きっと兄上が手ずから全部作ってコーディネートするに決まってる」
「実家の権力を最大限に使って、大聖堂を押さえます」
「うわ…。俺達の結婚式で使わせて頂いただけでも、特例みたいなものだったのに…」
「あの大聖堂で結婚式を挙げられるのは、王族か公爵家くらいですものね。どれほど寄付金を積んでも難しい大聖堂での結婚式……必ずキュカさんの為に押さえてみせます…!」
アレクサンダーの一存による一方的な婚約破棄は、ロザンナの名誉を甚く傷付ける行いだった。
すかさずマティアスが求愛してそれにロザンナが是と応えたのと、アレクサンダーに対してロザンナには一切非がない事は明らかだったので醜聞にはならなかったが、王太子から婚約破棄されたという事実のみを見れば、内実はどうあれ、ロザンナにも至らぬ点があった、と見做されてしまう。
国王と王妃は息子の非を詫びる意味もあって、伯爵家では先ず個人利用は不可能な大聖堂での結婚式という特別扱いを取り計らった。
これは王太子妃になるはずだったロザンナの新たな門出を祝うと同時に、「あんな息子に今まで寄り添ってくれて本当に有難う、そして大変申し訳ない」という、親としての謝罪でもあったのだろう。
何にせよ、伯爵家に嫁ぐ公爵令嬢の結婚式を大聖堂で行えたのは、王家の厚意によるところが大きく、例外と言っても良い。
だからこそ、同じように伯爵の息子と伯爵の娘が大聖堂で結婚式を挙げようと思ったら、相当の根回しとコネと金が必要になって来る。
「俺の奥さんは偶に凄くカッコいいなぁ。…でも、キュカに感謝してるのって、俺とローザだけじゃないと思うんだよね」
「……。アルフレート殿下とクローネさん…!」
「王族が結婚式を挙げる由緒正しい大聖堂を押さえられるのは、王族で王太子の、アル殿下も同じじゃない? それも、多分、伯爵令息夫人になっちゃったローザよりは、確実に」
「伯爵令息夫人には好きでなったのです。そんな卑下するような言い方、やめて下さる?」
「ゴメン。…後悔してないなら良いんだ。俺はもう、ローザを手放すなんて事、出来やしないんだから」
「……手放されたら、泣きますから」
一方、その頃。
王太子妃に選ばれた少女が、四年あまりという月日の遅れを取り戻すべく、学院の課題をこなしながら王妃教育も受けている。
アルフレートへの愛と貴族としての責務がそうさせるとは言え、焦る彼女が無理をして倒れでもしたら本末転倒だ。まだ両親が退位するには早いので、アルフレートはやっとこの手に戻って来た愛しい婚約者を、気晴らしにと王宮の見事な庭園に誘った。
薔薇をメインに、ジニア、セージ、サルビア、ガーデンマムなど、明るい春の花よりは少し落ち着いた、けれど色とりどりの秋の花が見栄え良く咲き誇っている。
白いティーセットに小さなケーキやマフィンをテーブルに運ばれれば、暫く勉強漬けで睡眠も削っていたクローネは、自分がどれだけ切羽詰まっていたのかをようやく自覚した。空気の温度も花の匂いも、夏から秋に変わったのだと気付けないまま過ごしていたから。
「キュカさんの想い人が、キュカさんの婚約者のお兄様だと、どうしてアル殿下がご存知でしたの?」
「マティアスは、別にキュカ嬢の婚約者ではなかったようだよ。親同士の軽い口約束だけで、正式な婚約は結んでいなかったようだし。…ただ、僕の婚約者候補ではあったから。キュカ嬢に限らず、サーシャ嬢もエルダ嬢も、僕は僕なりに観察していたんだ。あの年頃の女性なら、好きな人の一人くらいは居てもおかしくはないし。――もっとも、エルダ嬢は生身の男よりも学問に恋をしているような女性だったけれど」
「エルダさんには本当にお世話になっております。あの方が家庭教師をして下さるお陰で、どうにか学院の授業にも付いていけているようなものですから…」
クローネは丁寧に淹れられた温かな紅茶を飲んで、ほぅ、と軽く息を吐いた。
「マティアスにも一応、確認は取ったよ」
「レナート様との婚約が調ってからのキュカさんは、本当に幸せそうに笑っていらっしゃるもの。レナート様もキュカさんの事を妹みたいではなく、女性として好ましく思っておいでのようですし、良かったと思います」
「うん。僕としても、キュカ嬢には本当に感謝している。王太子妃になりたいなら、先ず君の事は見付けても絶対に僕に報告なんかしないだろうし、ましてや君の事も放置していただろう。けれど、彼女は正しい事をした。きっと彼女に想い人が居なかったとしても、同じ事をしたはずだ。キュカ嬢はそういう人だ」
「はい。……私、薄情ですね。記憶もない胡散臭い漂流者の私を、実の娘のように可愛がって下さったのに、結局、私はアル殿下を選んだのだもの」
「勿論、クローネを保護した漁村のご夫婦にも感謝している。クローネは可憐だから、きっと村の男達が放っておかなかったと思う。それでも君は、誰にも嫁いでいなかった。ご夫婦が本当にクローネ……否、リルカ嬢を幸せに出来る男を夫にしようと思っていたからこそ、クローネは清らかなまま、僕の元へ戻って来てくれた」
「はい。……求婚は、何度かされましたが。漁村では大した仕事も出来なかった私なので、迷惑が掛かっていたと思います。だからこそ、誰かの手を取って早く居場所を作るべきだと判っていましたが、どうしても、誰の手も取る気にはなれず……刺繍だけは我ながら自画自賛出来る腕前だったので、街のメゾンに働きに出る事にしたのですが、結果的に、そうして良かった…」
しみじみと語るクローネの琥珀には、仮初の故郷である漁村と老夫婦への哀愁こそあれど、アルフレートと共に歩む未来こそが人生だと、全く悔いが見当たらない。
「キュカさんには厚くお礼申し上げたのですが、それだけじゃ足りなくて。レナート様のメゾンに、実はお手紙を出したんです」
「手紙? 僕以外の男に手紙なんて、妬けるな」
そう言うくせに、アルフレートには嫉妬した様子などどこにも見受けられない。優しげな面立ちは、そのままニコニコと微笑んでいる。
「揶揄わないで。私がアル殿下一筋な事は、よく御存知でしょう? …針子として働いていた実績があるので、キュカさんのウェディングドレスの製作に、一口噛ませて頂けたら、と」
「刺繍かい?」
「刺繍もですけど、私、型紙から衣服を起こす事も出来るようになったんですよ。ご存知でしょう?」
リルカの時に得たスキルだ。両親よりも先にアルフレートに報告したので、彼が知らない訳がない。
「でも、レナート様ったら、キュカさんのドレスは全部自分だけで作りたいのですって。刺繍の一つも譲って下さりそうにないの」
珍しく拗ねた顔でスコーンを行儀よく食べる婚約者に、アルフレートはレナートの気持ちが判ると言いたげに頷いた。
「たった一人の女性に夢中な男なんて、皆似たり寄ったりだよ」
「アル殿下も?」
「僕も」
もしかしたら二度と再会出来ないかもしれないと、諦めずに捜しながらも心のどこかで喪失感を拭えず、この四年生きていた。
だからこそ、琥珀の瞳にまた自分が映っている。それだけで嬉しくなってしまう。
「…キュカ嬢には、本当に感謝しないといけない。クローネ、もう二度と、僕の前から居なくならないで……」
アルフレートに切なげに訴えられ、クローネは喉の奥でスコーンを詰まらせそうになった。
婚約者は元々美形ではあったけれど、この四年間でビックリするくらいカッコ良くなってしまった。少女のように愛くるしかった王子様は、もう過去の記憶と肖像画の中だけにしか居ない。
「しかし、クローネの刺繍も突っ撥ねられたとなると、キュカ嬢に感謝の気持ちを捧げるには、もう結婚式の日取りに合わせて大聖堂を押さえる事くらいしか思い付かないな」
「それは素敵ですね! 是非お願いします」
「ただ、同じような事を、伯爵令息夫人になられたが元公爵令嬢で実家の権力も王家の次に凄まじいロザンナ夫人と、その夫のマティアスも考えそうではある」
「! 急ぎましょう、アル殿下! 先を越されてしまいます!」
紅茶もまだ半分残っているのに慌てて席を立ったクローネは、かつての深窓のお嬢様らしい淑やかさを持ちながら、漁村で暮らした時に得た生命力や活発さも垣間見せるようになっている。
貴族令嬢――まして、王太子妃になろうという女性には致命的な欠点かもしれない。
けれど、自分が傍に居られなかった時にまっさらな彼女が身に付けた新たな面も、アルフレートには魅力的にしか映らない。
「もう、何を笑っていらっしゃるの? 早くしないと、負けてしまいます!」
いつから勝負になったのか。気持ちは判らなくもないけれど。
行方どころか生死も不明だった恋人が、今こうして目の前で生き生きとしている。その姿があまりにも鮮やかで愛おしいから、とうとうアルフレートは声を上げて笑った。
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