05


 記憶を取り戻したクローネは、実家に戻った。

 アルフレートと公爵家は、クローネを助け、保護して下さった礼にと、老夫婦及び漁村にたくさんの金品を用意した。記憶を取り戻したクローネは、長閑に漁村で生きる平穏な暮らしよりも、知らない間に王太子になった初恋の君を隣で支える将来の国母としての道を採った。

 幼い頃から相思相愛で、自分が行方不明で生死不明であった間も、ずっと忘れずに喪にも服さず捜し続けていたと言われて、心動かない乙女は居ない。

 婚約者候補は全員王太子妃に選ばれなかった訳だが、キュカは元より、サーシャもエルダもクローネの生還を素直に喜び、サーシャは何年も前から片想いしていた四十路の寡侯爵に押しかけ嫁入りし、結婚よりも身を立てたい勉強大好きなエルダはクローネの家庭教師となって、もう暫く優雅な独り身を満喫する方針らしい。

 そしてキュカは――


「いらっしゃい、キュカ。相変わらず子リスのように可愛いわ」

「お招き有難う御座います。レナちゃん。マティの婚礼以来ですね」


 キュカは目の前の長身を見上げた。

 弟と同じ銀髪でも、スッキリ爽やかな短髪のマティアスと違い、緩やかに纏めて背に流した長髪は優美さが勝る。


「さぁ、入って。お茶とお菓子を用意してあるの。キュカの好きな桃のタルトも作ったのよ!」

「本当? レナちゃん、お菓子作りも上手だから楽しみ!」

「桃が一切れ余ったから、味見しちゃった。瑞々しくて美味しかったわ~」


 んふふ、と悪戯っぽく微笑む顔もどこか女性的な美しさがある。父親に似て凛々しい男前のマティアス。母親に似て嫋やかな美貌のレナート。

 騎士団長の長男として、家を継ぐ嫡男として、厳しく育てられたレナートが、本当は可愛いもの、美しいものが大好きで、レースやフリルをこよなく愛し、騎士になるより製菓職人やデザイナーの道に進みたいと、ある日突然父親に打ち明け、大喧嘩の末、勘当されるように家を出て行った。

 レナートがレースやフリルといった女性的なものを好むのだと見抜いてしまったのは、幼い頃のキュカで。

 七つ年上の綺麗で優しいお兄さん。マティアスと一緒に纏めて可愛がってくれた彼が、キュカの摘んだ菫を笑顔で受け取ってサッシュベルトに挿した時、とても似合っていた。

 その頃はまだ今ほど長くなかった銀髪にも菫が映えると思ったキュカは、残りの菫をその髪に挿し、自分のリボンを解いて菫と括った。


『レナお兄さん、綺麗ねぇ。可愛いねぇ』


 その時、レナートが浮かべた表情をキュカは忘れない。

 いつものお兄さんでもなく、騎士見習いでもなく。驚いた後に泣きそうな顔をして、それでもどこか嬉しそうに微笑んだ事。

 ――あぁ、好きなのね。

 幼いなりに、キュカは唐突に理解した。

 その数週間後、レナートの誕生日に、キュカは手持ちの中で一番繊細で美しい、まだ一度しか髪に着けた事がないピオニーピンクのレースのリボンをウサギのぬいぐるみの耳に結んで渡した。

 レナートが卒業を目前にして己の嗜好を暴露し、その結果両親に受け入れてもらえず卒業後すぐに実家を出てしまったので、マティアスとキュカはレナートがとあるメゾンのオーナーに弟子入りして独り立ちして自分の店を構えるまで、どこで何をしているか全くわからずヤキモキしたけれど。

 メゾンを構えたと知ったのは、彼から手紙があったから。オーナー兼デザイナーとして駆け出しのレナートの店が少しでも繁盛してほしいと、キュカは早速ドレスを注文して、シーズンごとに新しいドレスを注文するようになった。


「でも、本当に凄いですね。レナちゃんがメゾンを構えてまだ三年足らずなのに、ファッションプレートにドレスや帽子が載るどころか、ついこの間はとうとうクローネ様の嫁入りに持って行くドレスの幾つかをレナちゃんが手掛ける事になったんでしょう?」

「そうなの。クローネ様はいずれ王室に入る方だから、ビッグチャンスなのよね。畏れ多いけれど、身が引き締まる思いだわ」


 レナートはずっと己の嗜好を隠して、騎士らしく、男らしくと意識していたけれど、キュカの菫の一件で好きなものを我慢するのはやめる事にしたのだと、後から知らされた。

 マティアスから兄を奪ってしまったのは自分の迂闊な言動だったのかと思い悩んだが、マティアスからは「兄上がずっと我慢を強いられるよりは、全然良い」と言ってくれたので、今は良かったと思う事にしている。

 昔は普通に男らしい口調だったのに、再会したレナートはすっかり女性的な物腰や口調に様変わりしていた。元々母親似の美人なので、違和感など何もないけれど。

 彼を「レナちゃん」と呼ぶようになったのも再会してからだ。心が女性なら、こっちの方が喜んでくれると思って……。


「――でも、マティったら。ロザンナ様をお好きだったなんて…。アタシはてっきり、キュカと一緒になるものだと思っていたのに」

「マティの背中を押したのは私なので、そう怒らないで下さいな」

「アルフレート様もアルフレート様よ! 純愛を貫くのは結構な事だけど、キュカはこれで、二人の婚約者に振られた令嬢ってレッテルを貼られたのよ!? 許せないわ!!」

「でもね。マティとは実質、ただの幼馴染でしかなくて、正式に両家で婚約を結んではいなかったのも事実だし、アルフレート殿下にしても、婚約者候補ではあったけれど、婚約そのものはしてません。アルフレート殿下の御心には最初から、本来の婚約者であるクローネ様がずっといらしたんですもの。あるべきところに収まっただけです。どちらにせよ、マティともアルフレート殿下とも婚約未満だったから、そこまで深刻というほどでもないですし」

「キュカは良い子ね~。良い子過ぎない? …だからこそ、次の縁談こそ、上手く纏まってほしいと願ってたのに…」

「……。ゴメンなさい」


 レナートの言葉に、キュカは思わず謝った。

 キュカの次の縁談相手――アルフレートが「後数年もすれば王家御用達のメゾンになるだろう、新進気鋭のデザイナーで、家は出ているが貴族名鑑にまだ名が載っているから戸籍はそのままだろうし、彼は実に有望株だと思う」と勧めた縁談は、マティアスの兄、レナートだった。

 嫌なら、気乗りしないなら、断っても良い。キュカ達はもはや、選ぶ側なのだから。

 その上で、キュカはアルフレートの勧めに従い、今ここに来ている。その意味を、きっと目の前でタルトを切り分けている青年は知る由もないのだろう。


「やだ! 違うわよ、キュカに不満がある訳じゃないの! でも、アタシは、」

「レナちゃんにとって、私は七つも年下の、妹みたいな存在ですもの。レナちゃんは…とっても美人で、その辺の女性よりも女性らしくて、きっと素敵な恋人だって…」

「居ないわ!? 居ないわよそんなの!!」

「でも…、レナちゃんは、私より年上の、大人ですもの。好きな方くらいは…」

「……ッ、」

(あ。…いらっしゃるんだわ)


 動揺したレナートの反応で察してしまえた。覚悟していた事だけど、胸が軋む。

 上手くいった幼馴染の恋に比べ、自分の恋はいつまでも秘めたる一方通行のまま。


(それでも良いの)


 それでも良いのだと、恋を自覚した幼い頃、そう思ったじゃないか。報われなくても、いつかマティアスと結婚して本当に彼の義妹になるのだとしても、心でひっそり想うだけなら自由だと……。

 だから涙は出ない。少しだけ、目頭が熱くなって、鼻の奥がツンとしたけれど。気のせいだ、こんなもの。


「…ゴメンなさい。レナちゃんに好きな方が居るなら、私、今回の縁談はアルフレート殿下のご厚意でしたけれど、辞退を、」

「…だって。キュカはマティの…弟の婚約者だと思ってたのよ」

「……? レナちゃ、」

「こんな、男なのに、綺麗で可愛いものが好きで、レースやフリルに囲まれたいって毎日思ってて、騎士になりたくないとまだ幼かった弟に家の重圧を押し付けて…自分だけ好きな事を好き勝手にやってる無責任な男なんかに、キュカは勿体ないじゃない……」


 眉根を寄せ、唇を噛み締めて苦し気に告げたレナートに、キュカは目を丸くする。


「キュカが大切じゃない訳、ないじゃないの。大好きじゃない訳、ないじゃないの。……初めてだったのよ。アタシが…俺が、何を好きなのか。好きなままで居て良いと、菫を差し出して笑ってくれた。一番お気に入りの綺麗なリボンと可愛いウサギを俺に贈ってくれるような、そんな子…貴女以外、世界中のどこ探したって、居る訳ない」

「レナちゃ、」

「ずっとお兄さんで…今はもしかしたらお姉さんで。男扱いされない事なんか、今更なのに。どうして家を出た俺に、爵位なんか持ってもいない俺に、アルフレート様直々にキュカとの結婚の打診が来るの。おかしいだろ。キュカならそれこそ、王太子妃にだって、」

「すき」


 一生の胸の奥で飼い殺すはずだった想いが、気付けば口から出ていた。


「キュカ…?」

「レナちゃんが、レナお兄さんが、…レナート様が、好き」


 目が潤む。耐えようとしているのに、涙腺が決壊する方が僅かに早かった。眦から溢れて頬を伝う。


「マティにずっとお姉さんぶってたのも、少しでも子供っぽく見られたくなかったの。少しでも、大人に見られたかったの。だって…私の大好きな人は、初恋の人は、今でも恋しい人は、七つも年上で、綺麗で可愛くてカッコ良くて、だけど私の事は妹みたいって、」

「キュカ…!」

「でも、レナート様は。心が女性なのだと、思って…。男性がお好きなのだと、思って…。だから、私、ずっと、」

「キュカ! 待ってキュカ! 泣かないで、否本当に待って!? 俺の事好きって言った!?」

「……幼馴染のお兄さんが、好きな人になった時の事、今でも覚えてる。……子供が摘んだ菫を笑顔で受け取って、サッシュベルトに挿してくれて…銀の髪にも菫が似合うと思ったの。私が持ってる中で、一番素敵なリボンで括ればもっと喜んでくれるかなって……その時の、顔が――――――――っ!?」


 それ以上は言えなかった。包丁を手放した腕で強く抱き寄せられる。

 かつて騎士として鍛えた身体は、デザイナーになっても健在なのか、細身に見えて意外と逞しい。厚い胸板に顔を押し付けられるくらい、意外と太い両腕が回された身体は身動ぎすら許さないほど、強く強く。


「…あぁもう! 俺の馬鹿! 年下の女の子に、ここまで言わせるなんて…!」


 切り分けたタルトの匂いが仄かにする。甘い桃の香り。移り香まで愛らしく、どこもかしこも綺麗で可愛いのに、抱き締める身体は大人の男らしく、カッコいい人。


「…十歳の頃から、ずっと大好きなの…。報われなくて良いから、これが最後のチャンスだと思って、アルフレート様の勧めた縁談の中にレナート様のお名前もあって、それで、」

「もう良い。…もう良いから」


 耳を擽る声音が変わった。不自然ではない程度に高くしたトーンから、本来の地声だろう、落ち着いた柔らかな低音。吐息ごと耳たぶに掛かって、ゾクリと背筋に甘い痺れが走る。


「俺だって、ずっと前からキュカが一番特別だよ。俺の、アタシの、世界一可愛くて優しい女の子。大好きな子」

「……!」


 じわ…、とまた涙が溢れて来る。けれどこれは、嬉し涙で。


「爵位もない、継ぐ家もない。あるのはまだ売り上げがやっと伸びて来たメゾンと、騎士になりたくないと無責任に実家を出た俺しかないけれど」

「私には兄さまも、弟も居ます。…私、王妃教育を受けてる間、領地の運営や資産運用に関してもたくさん学びました。クローネ様のように刺繍が上手ではないからデザインも針子もお役に立てないかもしれないけど、メゾンの経営や経理なら、お役に立てると、」

「馬鹿ね。そんな事しなくても、キュカはアタシのお嫁さんとして、毎日アタシのドレスを着て隣で可愛くニコニコしてくれれば充分なのに。…でも、そうね。アルフレート様の為に学んだ事でも、俺の為に生かしてくれるというのなら、これほど嬉しい事はない」


 腕の力が弱まった。見上げると、涙に滲んだ視界の先、愛しい人が真摯な表情でキュカを見下ろしている。


「細かいところまでよく見ていて、人の気付かないところまで見通す聡明で優しいキュカ。俺と、結婚してほしい」

「……はいっ…!」


 初めてのキスは、涙と桃の味がした。

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