04


 卒業し、結婚式に参列し、避暑の為に領地へ移動して四日ばかり経った頃。

 長閑な土地柄故に、領民もほのぼのとした者が大半で、キュカもツバ広の帽子に軽やかなワンピース一枚で供を付けずに歩いても平気なくらい、穏やかな領地。

 高貴な女性は肌の白さを好まれるので、日焼けするのは眉を顰められる。帽子や日傘でちゃんと陽射しを避け、海沿いの道を散歩するのが避暑地で過ごす朝の日課になっているキュカは、今日は街まで歩く予定だ。

 この街にもテーラーは居るし衣服店はあるが、貴族の衣装を仕立てるほどの規模ではなく、庶民の衣服を取り扱う一般的なメゾン。そこに、去年まで知らなかったが数年前から針の上手い隣村の娘が働きに来ているらしい。その娘がハッとするほど綺麗なお嬢さんという事で。

 どんな娘さんだろう、と少し興味が湧いたキュカは、その針子が雇われている仕立て屋まで行ってみる事にした。街の男達がこぞって窓の外から一目見られないかと何度も意味なく店前を通りすがるほどの美少女。キュカの兄と弟も噂を聞いて気になっているらしいが、如何せん二人共、騎士団長の指導の下、マティアスと共に軍事訓練に参加している。毎年の事だから今年も同じで、こちらに来られるのは二週間後だ。

 一足早く避暑を求めて領地に移ったキュカが件の店に赴く途中、海岸で麦わらを被った少女の後ろ姿を捉えた。

 貝殻でも探しているのだろうか。簡素なサンダルで砂浜にしゃがみ込んだ少女は三つ編みの毛先に砂が付くのも構わず、砂の起伏を手で崩している。 

その後ろ姿が微笑ましく、キュカは編み上げサンダルを砂浜へ向けた。


「お嬢さん、こんにちは」

「えっ? こんにちは…?」

「貝殻を拾ってらっしゃ――……、」


 振り向いた彼女の顔を捉えたキュカは、そこで息を呑んだ。

 夏の夜空のような美しい黒髪に、飴色のような琥珀の瞳。日焼けを知らなかったあの頃よりも少し焼けた肌は健康的で、小動物めいた愛らしさを醸し出している。

 すんなりと伸びた手足や背丈、顔立ちも多少大人びているけれど、可憐な声も口元にポツンとある小さな黒子も、四年前の十三歳を想起させるには充分で。


「クローネ様…!?」

「くろー、ね?」


 瞠目したキュカの様子に、彼女は困惑しながらもキョトンとしている。

 着ているものは安っぽいが刺繍が細やかな木綿のワンピースで、かつて纏っていた高貴な雰囲気よりも、素朴な田舎娘の健やかさが先立っている。全てが馴染んでいて、演技には見えない。


「あの…、済みません。知人によく似ていたものですから」

「知人に…」

「お名前は何て仰るの? あ、私は領主の娘でキュカと申します」

「えっ、領主様の…!? こ、これは失礼致しました。私、こちらの街のメゾンに針子として雇われている、隣村のリルカと申します」

「リルカさん…」


 よく似た別人かと思ったが、しかし唇の右下にある黒子の位置まで似ている人なんて、早々居ないと思われる。


「隣の村と言うと…漁村だったかしら」

「はい。…実は私、漂流して村に流れ着いたところを親切な老夫婦に助けられた身なのですが、それまでの記憶が全くなく…。心か身体に大きな衝撃を受けたのだろうと、村医に言われまして…。……あの、知人に似ていると仰いましたが、もしかして、その知人とは…」

「…四年ほど前に、海に出たところ急な嵐に襲われ、行方知れずになっております。…リルカさんのご容姿の何もかもが、その方にそっくりなのです。顔かたち、口元の黒子まで」

「あ……」


 思わずだろう、リルカは砂だらけの指で口元を覆った。


「あの、…良ければ少し、お話が出来たら嬉しいのだけど」

「私は、私も…。あ、ですが私、そろそろ出勤しないといけない時間で」


 街に一つしかないメゾンで働いている美少女の針子とは、十中八九彼女に違いない。


「そうね。…でしたら、仕事が終わるのは何時頃かしら。私の邸にいらして。もし、都合が悪いという事でしたら、休日にお会いしたいわ。…ただ、記憶がないという事でしたら、信じられない事を話すかもしれませんが」

「い、いえ…。私も、この四年あまり、ずっと不安で…。老夫婦の二人は、「こんな磯臭い村で一生を終えるのは嫌だ」と出て行った実の娘以外に子供が居なくて、ずっと二人で娘さんを案じながら生きていたそうで、浜辺で拾った私の事を、本物の娘の代わりのように可愛がって下さるのです。有難い事ですし、少しでも恩を返せたらと得意な針仕事で出稼ぎを始めましたが、自分の事が何も判らないというのは、やっぱり怖くて…」

「……それは、さぞかし辛かったでしょうね…」


 自分が何者かも判らない中、四年の月日を過ごすのは、決して心身が本当の意味で安らぐ事はなかっただろう。


「安心なさって。私は記憶を失う前の貴女の事を直接はよく知りませんけれど、少なくとも後ろ指を指されるような事は一切何もしていない、出来ないお人柄であった事は疑いようもありません」

「ほ、本当ですか?」

「それどころか、素敵なお嬢さんだと皆から言われるような、素晴らしい人でしたよ」

「そ、そんな…」


 リルカは狼狽えながら、砂だらけの指先を払った。


「そういえば、何をしていらしたの?」

「綺麗な貝殻が欲しくて…。私の住む村も漁村なので貝殻は拾えるのですが、こちらの浜に落ちている貝の方が種類が多いのです。何故かは判りませんが、潮の流れが関係しているのかと。貝殻の模様や内側の光沢の色合いを、刺繍の参考にしたかったのです。縫い物はともかく、刺繍は何故か得意でしたので、これならお金を稼ぐ事が出来るのではないかと…。私、申し訳ない事に、村ではあまりお役に立てなくて」


 漁村なら、海や浜や磯で行う雑用はたくさんある。縄を結ったり網を補修したり海産物を食用やアクセサリーに加工したり。

 しかし、生粋の公爵令嬢として育った彼女に、そういった手作業はあまり向いてなかったのだ、多分。


(クローネ様は、まだお若いのに刺繍がとてもお上手だと有名でいらっしゃったわ…。私も作品を拝見した事があるけれど、十三歳が刺したとは到底思えない出来栄えだったものね)


 アルフレートのタイやハンカチに、度々王室御用達のメゾンやテーラーではない手で刺繍が施されていて、それがクローネの作だと知られた時、世辞抜きで素晴らしい出来栄えだと評判だった。


「今日は、少し難しいと思います。でも明日はメゾンの定休日なので…」

「判りました。では、明日の朝、こちらから馬車を向かわせます。どうかそれに乗っていらして」

「ば、馬車!?」

「大丈夫です。リルカさんは、馬車に乗り慣れた人ですもの。きっと身体が覚えていますわ」


 そこでリルカと別れると、キュカは急いで邸に戻り、手紙を書いた。

 アルフレートの婚約者候補のキュカは、検閲は最小限でアルフレートに直接手紙を送る事が出来る。

 急いで書いた手紙を転移魔法でアルフレート宛てに飛ばした。一々人の手と距離を経由していたら明日には間に合わない。


(アルフレート殿下はご多忙だけど、夜には毎日、手紙や報告書を自ら確認すると仰っていたから、今日中に読んで下さるはず)


 キュカは明日何を置いても飛んで来るだろう王太子の為に、今度は客室の掃除を侍女に頼む。

 元々汚れてはいないが、「もしかしたら王太子が泊まる可能性がある」と告げれば使用人一同張り切って調度品を運び、カーペットの隅々まで埃を取り、窓ガラスを磨き、飾る花を買いに行く。

 数時間後。とっぷり夜も更けて、そろそろ寝るかという時間。手紙を読んだらしいアルフレートは何と、空間移動の魔方陣を使って深夜にやって来た。


「キュカ嬢、あの手紙は本当なのか!? ――こんばんは、お邪魔する!!」

「そ、そうなのです…。こんばんは、いらっしゃいませアルフレート殿下。――私よりも、アルフレート殿下の方がクローネ様についてはお詳しいはずなので、臣下の身でありながら尊い御身をこうしてお呼び立てしてしまい、本当に申し訳ありません」

「否、寧ろよく早急かつ重要と一目で判る封蝋を使ってまで直接知らせてくれた事、感謝する」

「ですが、手紙にも書きました通り、クローネ様…リルカさんは記憶を失っていらっしゃるようで、拾って頂いた漁村の老夫婦にも恩義を感じていらっしゃるようです。どうかくれぐれも、質問責めにしたり無理やり思い出させようとしたり強引に連れ帰ろうとするなどといった行為は、避けて下さいますよう、お願い申し上げます」

「……ッ…、あぁ。判った。判ってる。…強引な事は、しない」


 本当は強引な事をしてでも王都に連れ帰りたいのだろう。けれど彼女の今暮らしている環境や情緒や状況を踏まえて、必死でその欲求を堪えるアルフレート。


「本当に…クローネ様だと思うのです。顔かたちだけではなく、口元の黒子の位置や声まで同じで…。他人の空似というには、あまりにも似過ぎていらっしゃいますから」

「…有難う、キュカ嬢。君は――君達は、僕の婚約者候補でありながら、僕が彼女を諦めていない事を、ずっと何も言わずに見守ってくれていた事を、知っている。君達の中から選ぶべきなのに、いつまでも選べない僕を決して非難せず……不実な態度で、本当に…済まない。申し訳ない」

「いいえ。いいえ…! ただ、記憶を喪失してらして、今の暮らしに不満はなさそうで、このまま記憶が戻らない場合は、公爵令嬢として育った素地を一切失った状態のリルカさんを王太子妃に据えるのは、流石に難しいと思います」

「…うん。…彼女の記憶が戻らなくても構わないと言えるのは、あくまでも僕個人の意見だからな。父上も、母上も、クローネ…リルカ嬢自身も、反対するだろう」


 それでも、諦めきれない。――アルフレートはポツリと告げた。

 翌朝、迎えに寄越した馬車に乗ってやって来たリルカは、昨日と同じく素朴な三つ編みにした髪に、これまた手製なのかシンプルな水色のワンピース――ただし裾に施された刺繍だけは細かくて凄い――を着ていた。


「こちらに。…あの、驚かないでほしいのだけど。記憶を失う前のリルカさんの事を私よりもよく知っている方が、この先の部屋にいらっしゃるの。何か思い出せたら良いですわね」

「そ、そうなんですか…。緊張します…」


 貴族の邸と言っても、本来の彼女にとってはこの程度の邸、見慣れているはず。ガチガチに緊張しているリルカの為にドアを開けると、大人しく座っていられなかったのだろう、立って熊のようにウロウロしていたアルフレートが身体ごとこちらに向き直る。


「っあ…」

「……!」


 アメジストの瞳と琥珀の瞳が合わさった瞬間、リルカは全身雷に打たれたように痙攣し、次いでポロリと涙を一粒落とす。


「クロ、…リルカ嬢?」

「わた、し…、どうして…? どうして…、アル様の事を…今まで忘れていられたの…?」


 目が合った瞬間、記憶が蘇ったらしい。

 ポロポロと止まらない涙に嗚咽。記憶が一気に戻った事で脳が混乱しているのか、頭痛がするらしく、こめかみの辺りに手のひらを宛がって頭を抱えて蹲る。

 キュカは慌てて頭痛薬を取りに走った。

 用意しておいた冷たいハーブティーで薬を呑ませ、説明するまでもなく思い出したリルカ――クローネは、ひっくひっくとしゃくり上げながらアルフレートに大人しく抱き締められている。

 かつて見た、可愛らしい恋人達の姿を、四年ぶりに目の当たりにしてキュカも感動に目を潤ませた。

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