まだ天国には行けない

しほ

 やがて青空になる日



 僕はもったばかりの卒業証書をにぎり、商店街に向かう緩やかな坂を駆け降りた。

どうしても見せたい相手がいるからだ。


 その人には去年の春に出会った。というよりも救われたと言った方が正解なのだろう。


 一年前、ずぶ濡れの僕は帰る道も忘れ、商店街に置かれたベンチに倒れ込んだ。


 どれだけ雨に打たれていたのだろう。春の雨は刺すような冷たさでどんどん体温を奪っていく。ろくに食事をとっていないせいで思考も停止だ。


 このまま死ねるならそれでもいいと思った。彼女の顔も思い出せない。好きだった曲のメロディーも浮かばない。


 でも……、でもせめて死ぬ前にもう一度だけ見たい写真があった。それは正月に家族で行った温泉旅行の写真だ。


 寒さで震える手を無理やり動かし、スマホの電源を入れた。直ぐにその写真は表示された。それ以降、写真を撮っていなかったからだ。父さん、母さん、弟、そして僕が笑っている。


 でも次の瞬間僕は絶叫した。


「何でなんだ! どうして僕だけ生き残ったんだよ。置いてくなよ!」


 鮮血に染まる車内、警察車両の無線の音が頭から離れない。


 この楽しかった旅行の帰りに僕たち家族の乗った車は事故にあった。カーブを曲がり切れなかったトラックが弟の座る運転席側に衝突したのだ。


 僕以外ほぼ即死だったと警察から説明を受けた。痛くなかっただろうか、怖くなかっただろうか、もっと優しくしてやればよかった。


 その日から僕の後悔の日々が続いていた。しかし、当たり前だが家族は戻って来ない。僕は親戚の家から高校へ通い、何とか生きていた。ただ生きていた。


 でも、それも今日で終わりだ。もう死んだっていい。


 ベンチに座ったまま空を仰いだ。鉛色の空は僕を拒絶するように睨み付けてくる。僕は静かに目を閉じた。アスファルトに叩きつける雨音だけが永遠と続く。


「チリリリン」


 ベルのような音が雨音に紛れて微かに聞こえた。


 そして何かが近づいて来る。


 温かいものが僕の体を包んでくれた。


「やっと僕も天国に行けるのかな」


あの日以来ずっと待っていた瞬間だった。雨の冷たさから解放され幸福な温かさに包まれた。


「もう死ねるんだね」


 僕はそっと呟いた。


 次第に僕の体を包む温かいものはガシガシと乱暴に体を拭き始める。これは天国へのお迎えが来たのではないと嫌でも気づかされた瞬間だった。僕は現実を知ることに覚悟を決め、恐る恐る目を開けた。


 そこには老眼鏡を首から下げた白髪交じりの老人がいたのだ。


「誰?」


 僕は天使でも死神でもない老人に尋ねた。


「わしか?向いの本屋だ」


「やめて、僕の体を拭かないで。死にたいんだ」


 僕はわずかばかり残された力で老人の手首をつかみ制止した。彼はバスタオルを僕の肩にかけた。


「雨に打たれたぐらいじゃ死ねないぞ。風邪をひくだけだ。死にたいならまずわしの店に来い」


 そう言うと老人は僕のスマホを拾い上げ店へ帰って行く。


 雨に濡れた体を乾かすためにストーブに当たった。温かいミルクを飲んだ。クッキーも食べた。僕は少しだけ元気が出た。それにしても、この商店街の小さな本屋に入るのは初めてだ。いつもは街の大きなカフェなんかが併設されている本屋に行くからだ。


「死のうとなんて思っちゃいけないよ。どれだけ悲しいことがあってもね」


 老人は僕の表情を確認するようにじっと見つめてきた。少し震えているのか分かった。僕が頷くと安心したように笑顔に戻った。


「ここにある本を見なさい。全て終わりまで書かれているよ。当たり前だね。君の人生はどうだ。今死んだらもう終わりだ。未完成の本はもったいない。」


 本屋の主人はゆっくりとコーヒーを一口飲んだ。


「でも、僕の家族は死んだんだ。未完成だよ」


 僕は初めて会った本屋の主人に口答えをした。


「それならなおさら君が生きて君たち家族の人生を全うしなさい」


 本屋の主人はぴしゃりと言った。


「僕一人で?」


「今はそう思うかもしれないがな、わしがいる」


「えっ?」


 僕は、僕の人生に突然入り込んできたこの老人をまだ認めることができなかった。しかし、何故か不快には思わなかったのだ。


 この日以来、僕は毎日のように吉田ブック店に通った。僕を助けてくれた吉田さんはこの小さな本屋を一人で切り盛りしている。


 後から聞いた話だが、吉田さんも家族を交通事故で亡くしたらしい。何とも不思議な縁だ。そんな共通の部分もあってなのか、僕たちは年が離れた友人になったのだ。


 そして彼は僕に生きる理由を教えてくれた。それは……


『僕の人生と言える本を完成させること』


 めちゃくちゃでもいい、精一杯生きてみることが大切なんだと口癖のようにいつも言う。


 出会ってから一年が過ぎた。


 今日は三月一日、僕の高校の卒業式だ。今日まで生きて来られたのは吉田さんのおかげだ。たくさんの本を紹介してもらい、豊かな心をもらった。悲しみと絶望の中にいた僕をあのごつごつとした手で救い上げてくれたのだ。


 僕はもう人生を捨てようとなんて思わない。


 信号を渡ると商店街が見えた。


 バスケで鍛えた体も最近ではなまってしまったようだ。それでも少しでも早く卒業証書を見せたい一心で吉田ブック店を目指した。


「チリリリン」


ウインドチャイムが勢いよく鳴る。


「卒業したよ。吉田さん!」



 僕は帰り道、死ぬ予定だったベンチに座って空を仰いだ。


 青く澄んだ空は僕を包み込むように優しく見つめてくれる。


「僕は生きるよ。父さん、母さん。」

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まだ天国には行けない しほ @sihoho

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