55. 声はいつもより二段低くて
先々週に、路地裏でアコーニの鞄を探した時の感覚。
初めて空気の色を感じた時の、身体の形が変わったような感覚。
あたしの腕からへびが伸びているのはあたりまえだ、というあの感覚が来て――通り過ぎました。
身体の形がどんどんぼやけていって、あたしの形がわからなくなりそうで、なんとか引き戻すと今度はシュシュとあたしが別々に離れて行きます。
あっちとこっちをふらふらと行き来するような、目が回って真っ直ぐ歩けないような感じで、魔法が落ち着きません。頭の中は絞られてるみたいに鈍く、ズキズキと痛むんですが、今を逃したらおじさんの手がかりはどんどん薄れて、わからなくなってしまいます。
ふらふらの魔法に見え隠れする空気のあじと色をなんとか覚えようとかき集めます。エンリッキおじさんの空気の特徴を捕まえようとします。
魔力もいつもみたいに身体に留まらなくて、取り込むそばからすかすかと抜けていって、だからたくさん息をして、たくさん吸い込んで、残ったのをシュシュへ送り、魔法を受け取ります。
そうやって魔法を使っていたら、さらさらした鼻水が出てきたようです。
次に「びい!」というシュシュの鋭い鳴き声が聞こえた気がします。
ぱつん。
突然めまいがして、空気の色が見えなくなって、かわりに養護室の戸棚がぼんやり見えました。
魔法が切断された? シュシュ、どうして……?
戸惑いながらもう一度魔法をつなごうとして、身体の形を意識しようとして、あたしは、自分の足がどこなのかわからなくなっていました。
どん、と尻餅をついて息が詰まりました。
はずみでスカートにぱらぱらと雫が落ちて、鼻水だと思っていたのは鼻血だとわかりました。
拭かなきゃ、と思いました。立ち上がろうと思いました。立ち上がろうとして、あたしは床におでこをぶつけました。
なんですか? 何が起こってるんですか? うで。腕どこですか? 腕と手、これですか? 今度こそ立たないと。
でも、右腕と左腕の力が違って、横向きに倒れました。背中が戸棚にぶつかったらしくて、大きな音がしました。震えが、手足や唇が小刻みに震えています。待ってください。なんで身体がちゃんと動かないんですか? あたし、あたしは、どうなってますか? 熱いです。痛いです。息ができません。療養室の床やベッドの脚がぐるぐる回っています。しゃっくりみたいに胸が何度もひきつります。
いやです。やだ。こわい。
「シュじんー! シュじんー! 寝てテ! 立ツだめ! シュシュ、たすケよブ!」
って使い魔の声が聞こえて、そのあと寮母さんの切羽詰まった声も聞こえて、あたしは記憶があいまいです。
* * *
床に座るペルメルメさんの、黒い瞳があたしを見下していました。その頭の向こうからルルビッケが身をかがめて、ボンシャテューと心配そうに覗き込んできていました。
「シュじんー……」
胸の上から首を伸ばして、シュシュが首の周りにしゅるしゅると巻き付いて来ます。
あたしは床の上にあおむけで寝かされていて、のみ込んだ唾はしょっぱくて、喉も痛みました。頭はズキズキして、顔も息も熱いです。
「あの」
「何やってるの?」
ペルメルメさんの声はいつもより二段低くて、お腹にきゅっとくる響きがありました。あたしの答えを待たずに、ペルメルメさんはルルビッケに指示を出しました。
「もう大丈夫だから、エーラちゃんの着替え持ってきてくれる? あとはまかせて。学科が終わってからまた来て」
ルルビッケが大きく息を吐きました。息と一緒に、少し縮んだように見えるぐらいでした。
ルルビッケが出ていった後、ペルメルメさんは唇を湿らせたり、下唇を噛んだりしていましたが、やがてこう言いました。
「しんどいところにごめんね。でも、これだけは言わせてもらうから。私が
長いまつ毛の目は細められて、ひやりとした言葉の響きには距離を取るような雰囲気があって、ペルメルメさんから嫌われてしまうような気がして、あたしはとても不安になりました。
「……すみません、でした……」
目に涙が浮かんできます。ペルメルメさんは目を閉じて深呼吸をすると、ハンカチの隅っこであたしの目元を拭いながら、さっきよりは優しく言ってくれました。
「いいから。泣くほどのことじゃないから。熱下がったら事情を聞かせて」
ハンカチに血を拭った跡があります。きっとあたしの鼻血です。
事情ぐらいは今話そうとしたら、ルルビッケが戻ってきました。
「エーラ、着替えはこれでいい?」
「……ありがとうルルビッケ」
「びっくりしたよ、ほんとにもー」
「うん……ごめんね」
ルルビッケはすこし口をとがらせてみせてから、ペルメルメさんに尋ねました。
「エーラ、塩切れだったんですか?」
「見たところ魔法の過負荷と軽い
ペルメルメさんがルルビッケに促す間、あたしは唇の裏に小さな塊があるのに気が付いて、舌で舐め取りました。
岩塩の粒でした。
ペルメルメさんが言ったのはつまり、魔法であたしの身体から塩気が抜け、魔法に見合うだけの魔力も供給できなくて、かわりに体力を持っていかれたということです。
「立てる? お着替えしよう」
と、手を引かれました。
ベッドに座って、鼻血に汚れた寝巻きを脱ぎながら、話し始めました。
「婆猿騒動の時、あたしに魔女の呼び方を教えたおじさんがいるんです」
「……呼び出す? 魔女を?」
「はい。絵とか、歌とか、そういうのを使えば、魔女を呼び出せて、あたしは子供だから、魔女から魂をもらって、なんでもできるようになるんだって」
「私には、現実味のない話に思えるなぁ。それで、そのおじさんがどうしたの?」
替えのワンピースをかぶせてもらいました。
「寮に来たんです」
「え?」
「熱冷ましとか、寮で使うお薬を補充しに、来たんです、今日」
「それで……会って、話した?」
首を横に振りました。
「カーテンの向こうで、声しか聞けなくて、でも、同じ声でした。それで、その人の匂いがまだ残ってるうちに覚えておきたくて、それで魔法を使ったんです。でも、こんなに上手くいかないなんて思わなくて。すみませんでした」
「いいから。あとで寮母さんにもお礼を言っておこう。シュシュくんにも」
「はい。シュシュ、心配かけてごめんね」
「イー」
シュシュはしがみつくみたいに、あたしの首に巻き付いています。
「軽いとは言っても
「でも、調査部に迷惑が……」
「無理してまた倒れたら、もっと迷惑かけるよ? ……班長命令です。おやすみしなさい」
命令するペルメルメさんは、嫌と言えない力がありました。
だからあたしはもう一日おやすみして、エンリッキおじさんのことを知らせようと木曜日に秘書室へ出向いたら、メーレーさんにこう言われました。
「カタ代表は今日からしばらく不在なんだよ」
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