54. こなぐすり

 信じられないほど小さくて、くしゃっとした顔で、ぞっとするほど動きませんでした。

 手も足も伸び切った赤ちゃんの頭を手のひらでくるんで、腕をこすり、胸をさすり、頬をなぜる手と指に、むちむちと湿った肌の感触。

 最初はほんのり温かかったのに。

 目の前がぼやけては戻り、またぼやけては戻ります。

 泣かないで。泣かないで。泣かないで。泣いたらいやです。

 ――泣いて。泣いて。泣いて。泣いて。お願いだから声を聞かせて――

 こすられるがまま、さすられるがまま、なぜられるがままの赤ちゃん。

 布のこすれる音が聞こえます。草笛みたいな声が聞こえます。

 動かない赤ちゃんの姿がぼやけて、後ろから目隠しをされたみたいに。

 真っ暗。


 シュじん。


 シュじんー。


 おキてー。


 おひルー。


「おひる……?」

 真っ黒な目があたしの顔を覗き込んでいました。薄いカーテンが揺れています。うつ伏せのまま寝ちゃったみたいです。

 カーテンの向こうから「エーラさん、起きましたか? 食堂には行けそうですか?」って声がして、あたしは熱でお休みしてたのを思い出しました。

「あの、行きます」

 すっかりぬるくなった氷枕からハンカチを外し、目元にぎゅっと押し当ててから、銀梅花ミューテの刺繍をじっと見ました。


 怖くてかなしい夢でした。


 産まれた赤ちゃんが泣かなかった夢。

 釘蛇の呪いがあふれた夜にも見ました、というか、流し込まれました。夢に出てきた、へびのあたしに。

 婆猿が取り込んだひとたちの情念が、猿の中心だったあたしに残ってるのかも、ってチェムさんに言われましたけど、他の情念も夢に見るようになるんでしょうか。

 ……そんなの、いやです。

「シュシュ。あたしが怖い夢を見てたら、助けてくださいね」

 起こして欲しくてお願いしたら、あたしのへびはこんな事を言いました。

「シュじんのワルいユメ、シュシュ食べルー」

 あ、って思いました。シュシュはもともと釘蛇で、釘蛇はだれかに悪夢を見せてそれを食べます。

 でもそれは、そうするように仕向けられただけで、好きで食べているわけでも、お腹いっぱいになるわけでもありません。

「やっぱりいいです。そんなの食べちゃだめです」

「こわいユメも、シュシュひつよウ」

 えっ?

「そうなんですか?」

「ソー」と、しっぽが左の手首に巻き付きました。

「シュじん、おひルひつよウ」


 


 ボケっとした身体でよたよたと、いつもの倍ぐらいの時間をかけて食堂へ向かいました。

 寮母さんが出してくれた昼食には、柔らかく茹でた貝殻型の練り粉コキエットにハムの薄切りが三枚もついていまして、お誕生日でもないのにこんなお昼ごはん初めてでしたから、おそるおそる聞きました。

「これも、予算ですか……?」


 毎月の寮費から出ているそうです。


 味も匂いもぼやけていましたけれど、病気でもちゃんとお腹は空きますね。

 二枚目のハムを食べ終えたら胸が「むっ」ってなりましたけれど、ちゃんと三枚食べましたから、えらかったと思います。

 

「熱冷ましのお薬も飲んでおきましょう」

 小さく折りたたまれた紙の包みがテーブルに置かれました。

「こなぐすり……」

「小さな子供じゃないんですから、ちゃんと飲みましょうね」

 違うんです寮母さん。粉薬は慣れてます。飲むコツも知ってます。薬をくれたのとコツを教えてくれたのがエンリッキっておじさんだっただけで。

 でもこれがあの薬じゃないのもわかってますから、三角に紙をひらいて、少し水を口に含んで、えい。

 飲みました。

 お腹ぱんぱんです。音を立てずにと空気を吐いたとき「エーラちゃん」ってあたしを呼ぶ声が聞こえました。


 振り向いた先、食堂の入り口あたりに白金プラチーヌの髪。


 アコーニです。

 シュシュが椅子から床へと降りて、向こうの椅子の下まで這って行きました。あたしはそれを見送って、ありがとうって声をかけて、顔を上げました。

 外から帰ってきたんでしょうか、森の色をした、薄くて軽そうな生地のゆったり長袖のブラウス。少し汗ばんでいて、いつもの四角い鞄を胸の前に抱えています。

 立とうとしたら、いいの、いいの、って手ぶりで止められました。アコーニは鞄から茶色い封筒を取り出すと、ぱたぱたと振ってみせました。

 お手紙を受け取って来たのかな、って思いました。

 アコーニにしては珍しく「にこー」って笑っていて、緑の瞳も白い歯も白金の髪もお月さまみたいに眩しいです。体調が万全の時に見たかったです。

 あたしはちょっとびっくりして、きっと恋人さんからのお手紙だから、あんなに嬉しそうなのかなって。

 でも、恋人さんからのお手紙を、あたしに見せにくるでしょうか。

 それなら、あの封筒はなんだろうって考えて、ぼんやりした頭でも思いつく事がありました。


「……受験票?」

「そうなの! 再発行できたの!」

 力いっぱい喜んで、駆け寄ったりして、ぎゅっと抱きついたりとかしたいのに。身体がやる気になりません。笑顔ですらしてるのがわかります。

「おめでとうござっ――」

 咳き込みました。ぐっふんぐっふん咳き込むあたしに、アコーニがと近づいてきます。

「大丈夫?」

「はい。ペルメルメさんが、だいぶ楽にしてくれました」

「ペルさんの魔法、効くものね。私も時々助けてもらうの。ものもらいの時とか」

「ものもらい?」

「うん。私、まぶた腫れやすくて」

 腫れると言われて、じっとまぶたを見ちゃいました。

「そんなに見ないで。今日は腫れてないの」

 って苦笑いされます。もう、痣はありません。

 頃合いをみていたのか、寮母さんが

「アコーニさんも、昼食の申請してましたね」

 って尋ねました。

 頷きに揺れる白金プラチーヌの髪をあたしは眺めてました。


 風邪をうつしちゃいけないからって、養護室に帰されます。

「試験、頑張ってください」

「うん。いろいろありがとう。頑張るね。エーラちゃんもお大事に」

 って、きれいな緑の瞳に言われました。

 あたしは、なんだかほっとしてしまって、養護室のベッドについたら、力が抜けてしまいました。胸につっかえていた固い毛玉がほどけて、口からするんと抜けて行ったみたいでした。


 そのままと寝て、起きて、夕方が近いのを天井の暗さで感じました。

 お手洗いに行って、戻って、ほとんど一日寝て過ごしたことにぼんやり感動していたら、二人分の足音が養護室に入ってきたんです。

 少し早い気もしますが、寮生が誰か帰ってきたのかなって思いました。



「今日は寮生がひとり体調を崩してまして」

 って寮母さんの抑えた声です。

 それに男の人の声が応えました。

「ああ、それは良くないですね。なるべく静かに済ませてしまいましょう」

 あたしは、急に熱があがったみたいに感じました。


 戸棚を開ける音。

 棚から何かを出す音、低い声が数を数えています。


「ちょうど今日、熱冷ましを一包使いました」

 と寮母さんが伝え、では足しておきましょうと男の人が答えます。あたしは横向きに寝たまま、息を潜めていました。

 あたしたちの家に来ていた時とは、話し方が違います。

 でも、この声は。

「では、伝票はこちらに。請求書は経理部さんにつけると聞いていますから」

 深くて、柔らかくて、優しげな声は。

 聞きたい事がたくさんあります。いますぐ飛び出して問い詰めたい。

 魔女になんてなれませんでしたって。いったいどこに行ってたんですかって。あの薬は何ですかって。お母さんに飲ませたのはなんだったんですかって。

 でもって予感がしてました。

 あの笑顔で、あのえくぼで、優しげに名前を呼ばれたら、きっと全部許してしまう。



 二人分の足音が部屋を離れました。

 寮母さんは、外から来た業者さんが全員出ていくのを見届けなければなりません。

「シュシュ」

 右腕にへびを巻き、あたしは靴も履かずにベッドをおりて、薬の戸棚のところまで進みました。

 戸棚に手をついて身体を支え、舌を出します。熱のせいで空気のあじがうまく感じられませんが、魔力視も、今朝ほどにはぐにゃぐにゃしません。

 さかいめを曖昧に、背骨に、意識を。

 ここにいた。ここでしゃべってた。ついさっきまで。

 エンリッキおじさんが。


「へびは、空気を色づける」

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