53. エーラのほうがえらいんですから

 チーズのにおいと舌触りが、ねっとりしつこく感じました。いつもは我慢できなくてすぐ食べちゃうのに、口の中でぐずぐずして、少しずつしか飲み込めません。

 蜂蜜でごまかしごまかし食べきりましたが、その蜂蜜だってとっても甘くて美味しかったはずなのに、げほげほしながら楽しみにしていたのに、なんだかこう、なんだかこう、あたしと甘さの間にうすーい膜が何枚もはさまってるような感じがして……病気っていやですね!


 って考えられるぐらいには楽になりました。

 ペルメルメさんの魔法すごいです。チーズと蜂蜜をどうにか食べていたら、喉の腫れと身体の熱さがゆっくり引いていきました。これが炎呼シャーマフラーマの「考えてやる」ってやつなのでしょう。


「七度八分。もうしばらくおとなしくしてましょうか」

 ぴっぴっ、と寮母さんが体温計を振りました。

「どうなったらいいんですか?」

「そうねぇ六度ぐらいになったら、かしら」


 なにひとつわかりません。水銀の入ったガラス棒で何がわかるっていうんでしょうか。

 起きて動ければ病気じゃありません。ですので起きあがってみたら頭はキンキン、身体はズンズンでした。病気です。寝ます。

 班のみんなはそれぞれ協会へ出勤していきました。夏休み中のアコーニはお部屋でお勉強です。

 少しして、寮母さんが氷枕という物を持ってきてくれました。分厚いゴムの袋に氷水を入れた枕です。氷は冷温庫用のを氷屋さんが届けに来た時、事情を話してすこし余分に買ったんだそうで、ええと。

「あのぅ、お金は……?」

「ちゃんと予算はありますから」

 よかったです。氷枕、ゴツゴツしますがひんやりして気持ちいいです。

 しばらくして、寮母さんは部屋を出ていきました。

 共用部分のお掃除だとか、中庭や小屋のお手入れだとかに外から人を入れているそうで、廊下や中庭の方から時々足音や、なにか声を掛け合っているのが聞こえます。

 ベッドは薄いカーテンで囲まれ、いつもの生活からぽつんと放り出されたみたいでした。

「シュシュ」

「ンー?」

「ほんとうに、おしごと行かなくていいんでしょうか。明日怒られたりしないでしょうか」

「シュシュ、わからなイー」

「……エーラも、わからないー」

 胸の上のへびをなでます。

 気にかかることはたくさんあるのに、あたしはベッドの上で頭痛をやり過ごすぐらいしかできません。

 再現実験のこと。見つからないエンリッキおじさんのこと。アコーニの受験票のこと。お母さんの病気のこと。


 ――思い出せないのよ。

 ――名前も顔も混ざってしまう。


「――カーラって、誰だったんでしょうね?」

「わからなイー」

「わからないー」

 狙って声を揃えたら、シュシュの口がぱかーっと開きました。かわいい。

「……ほんとうに、カーラなんてどこから出てきたんでしょう」

 そんな名前の子、あたしには覚えがありません。お母さんの昔の友だちとか知り合いとか、それか家族にいたんでしょうか。

 お母さんの家族の話、聞いたことありません。ちっちゃい頃に親戚の事を尋ねたら、もうみんな死んじゃったって言われました。

 パコヘータはお父さんの姓で、お母さんの昔の姓はわかりません。普通は、例えば「エーラ・パコヘータ=ファンボアーズ」みたいに残すんですが、お母さんはそうしませんでした。

「おととい、聞いてみれば良かったですかね」

 ああ、でも、お母さんはエーラもカーラもはっきりわからなかったみたいですから、聞かなくて良かったかもしれません。聞いちゃったら、カーラがまた出てきちゃうかもですし。魔法使いとしては「なりを与える」って言うところですか。

 何もしない、いい子のカーラ。

 ぜったいエーラのほうがえらいんですから、そのままおとなしく消えちゃってくださいよ。


 シュシュが胸から降りて、ベッドの柵にからまりました。暑かったのかもしれません。

 あたしは寝返りしながら、左のほっぺた、口、おでこと順番に氷枕で冷やします。ちょっと冷たすぎる気がしましたので、ゴソゴソとポケットからハンカチを出して、枕に敷きました。

 ちょうどいいな、って右のほっぺたを冷やしていたら、急に眠気がやってきました。

 夢魔ソニャデイラが引っ張ってるみたいな眠さで、全然がまんできなくて「シュシュ、お昼ごはんに、起こして」ってお願いした気はするんですが、それもはっきりしないまま寝ちゃったみたいです。


 気がつけば夢で、赤ちゃんの死体を抱っこしてました。

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