51. もし。もし。もし。

 チェムさんは言いました。


 ――私は再現しないと考えていますし、それを証明するための実験と捉えています。誰からも文句を言わせない実験をして、あなた個人の責任ではないと世間に示しませんか。


 でも、そのぅ、再現しちゃったら?


 ――危険のないように対策をたてますし、定義づけだとか手順だとかの検討もこれからです。安全が確保できなければ実験はしませんから、安心してちょうだい。


 そこでまた扉が叩かれて、またちゃんと話す機会をつくるわ、とチェムさんはドアノブをひねりました。


 ――業務にはもう慣れましたか?


 はい。その、途中でちょっと抜けても大丈夫なぐらいには。

 

 ――なるほど、わかりやすくて良い答えだわ。ところで、髪は誰にやってもらったのかしら。よく似合っていますよ。


 ほんとですか!? ルルビッケ……ええと『枝』の部屋にいた、背の高い女の子がやってくれたんです。同室人ルームメイトで。


 ――あらそう! 大した腕前だわ。仲はよろしい?


 そのぅ、仲は、良い。と思います。


 ――それは何よりね。それじゃ、なにかあったら秘書室へ連絡してちょうだい。私がいていなければケトか、誰か代理の者をります。もっとゆっくり話せたら良いのだけれど、またね。


 そう言って、チェムさんは大社殿へ出かけて行きました。大祭だいさいさんに会うんだそうです。ケトさんのふさふさの毛皮は暑そうだなあなんて見送っていたら、シュシュがようやく顔を出しました。

 怖がりさん。

 あたしは残りのお仕事を急いで片付けると、へびと鞄が落ちないように押さえながら、いつのまにか夜が近い道を走って帰りました。


 途中、「焼き菓子なんでも ブロンシュ」の前を通りました。ここでアコーニとばったり会ったのが、ずいぶん前の事に思えました。

 アコーニの受験票は再発行待ちで、あたしはもう「間に合いますように」って願うしかありません。


 いまアコーニは夏休みを取ってて、ずっと寮のお部屋で勉強しています。

 寮の正門を抜けて見上げたら、部屋から小さく手を振ってくれました。


 やっと仲良くなれたアコー二は。


「エーラちゃん汗すご!」

 って呆れ顔をしたジケは。

「なにあんた走ってきたん?」

 ってニヤニヤしたスーリは。

「魔法陣の図解ならこれかな」

 って貸してくれたペルメルメさんは。


 いまお湯を浴びて「あっつー!」ってはしゃいでるルルビッケは。


 もし再現しちゃったら、どうなってしまいますか?


 婆猿を呼んだのは、あたしひとりの魔法じゃなかったって、少なくとも協会の中ではそういうことになっていて、でもそれが変わってしまったら。

 もし。もし。もし。


 あたしひとりで、あれを起こせるってなったら。

 

 嫌われちゃったり、するでしょうか。まさに大迷惑女ってことになって、魔法協会にも居づらくなるんでしょうか。

 でもお母さんの療養のお金は要りますし、ここ以外で働けるのかわかりませんし、そのまま何年も何年も働かなくちゃいけなくて、あたしは、どこにもいけない……?

 頭のてっぺんから背中をつたって、怖さが冷たく降りてきます。


 同時に、おへその下から湧き上がってくる愉快な気持ちがありました。

 誰にも見られてはいけないとわかる、隠しておきたい愉快さ。諦めの気持ちをコインにしてぐるぐる回すようなたのしみ。


 あたしひとりで、あれを起こせてしまえるなら。

 それなら、なにもかも、むちゃくちゃにできちゃうじゃないですか――


「エーラどした?」

 ひゅ、って息を飲んじゃいました。

「あははは。なにー? そんなびっくりした?」

「かっ、顔ちかいです。いつもは遠くにあるくせに」

「ほらほらー、近づいて近づいてー」

 ルルビッケが背を伸ばして見下ろしてきます。

 背伸びしてやります。

 まったく。

「どうやったらそんなに背が伸びるんですか」

「ねー。わたしも知りたい。二人で足して割ったらちょうどいいのに。これがね。平均」

「教わりましたもん。知ってまーす」

 湯沸かしの栓を閉めてふんぞりかえってやりましたが「ちびこいちびこいー」って髪をぐしゃぐしゃされます。

 あたしはルルビッケに触れられるの好きみたいで、喉の奥の方から笑い声がこみ上げてきます。


 こんなふうに。

 こんなふうにしてても大丈夫だって、あたしは安心できるのに。

 

 悪夢の中から引っ張り出してくれたのに。

 

 それなのにあたしは、さっき浮かんだ空想が忘れられませんでした。


 婆猿になったあたしは、逃げるルルビッケを追いかけて、無数の手で捕まえて、猿の中に閉じ込めてしまうんです。

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