49. 間もなくパヒノルテ
揺られてます、揺すられてます。
―――エッテ。
――イエッテ。
こっち来いよ。
マライエッテ!
呼ばれた。
と思って目が覚めました。
でもそんなわけないですね。だって、マライエッテはお母さんの名前ですもん。へんな夢です。
汽車はカタカタ、ときどきギシギシ。四人席のお向かいは五十歳ぐらいのご夫婦さん。旦那さんはウトウトしていて、奥さんは小さな丸メガネ越しに本を読んでいます。
隣は
あたしの膝には帆布の鞄。綴じ紐をそっと解いて中をのぞきました。へび。鞄の口に顔をつけ、ひそひそ話しかけます。
「きゅうくつじゃないですか?」
「んーンー」
大丈夫そうですが、眠そうです。
シュシュの他には、お金の巾着、ペルメルメさんから借りた錫のずんぐり水筒、ルルビッケから借りたおべんと箱、今日もらったハンカチ。
お母さんからもらったハンカチ。
眼の前のあたしが誰なのかわからなかったお母さん。良い子のカーラのことも悪い子のエーラのことも、どっちもわからなくなっていて、
鞄に顔を入れたまま、鼻をすすりました。
必死に、それこそしがみつくみたいに刺繍してあたしに渡したお母さん。大事なハンカチを渡したお母さん。
お母さんが手紙の宛名にした「エーラ・パコヘータ」は、誰だと思って書いたんでしょうか。
どんな気持ちで、刺繍糸をお願いしたんでしょうか。
お母さんには、周りがどんなふうに見えているんでしょうか。
針を刺しながら、思い出していたのは何だったんでしょうか。
あたしが誰で、刺繍を渡したい子が誰で、思い出してる子が誰なのか、それこそぐしゃぐしゃに飛び散った手紙の文面みたいにバラバラになっていても。
エーラのどこかが、お母さんの中にまだ残ってる。
ゆっくり鞄から顔を出して、ふるふるする心を吹き崩さないように、慎重に息を吐きました。
丸メガネのおばさんは変わらず本を読んでいます。
ちらりと隣をみれば、女の子は口を開け、お母さんに抱きつくようにして寝ています。なんの不安も、なんの心配もしてない寝顔。
あたしにも、あたしたちにも、こういうときはありましたか?
疲れきっていた昼間のお母さん。夜、隠れた物置まで聞こえてくる、お母さんのお仕事用の声。鳴き声みたいな声。いつもどこかカリカリしてて、話も通じないことが多くて、どこかここじゃない所を見ていたお母さん。
でも。
あたしの前歯が抜けたとき、枕の下にいれるとウサギがコインと交換してくれるって教えてくれたのは、六歳でしたか? コインを舐めて怒られたのと同じ年でした。
九歳のとき、七歳のとき、五歳のとき。
お父さんが死んだ三歳のとき。
その前は、どんなだったですか?
刺繍、いつ練習したんですか? 好きだったんですか?
どんなことが好きなんですか?
あたし、お母さんのこと、なにも知らない。
お母さん。
マライエッテ・パコヘータ。
今年の十二月で三十二歳。
だからあたしが産まれたときは、ええと、十八歳。
五年後……いえ、四年後のあたしです。四年後に子供がいるかもって、想像もできません。例えばスーリが十八歳ですけど、スーリが赤ん坊を抱っこして、お乳をあげてるところ、考えられません。
お母さんは、いつから、どうやってお母さんになったんですか?
聞いてみたいですけど、いまのお母さんに答えてもらえるかわかりません。
療養所に入って、お母さんの様子は前と変わりました。でもこのあとどうなっていくのかわかりません。協会から来てる監察士さんも、療養所のお医者さんも、時間が必要だって言います。けれど、どれだけ経てばよくなるのか教えてくれません。
お母さんは、いつまで。
「間もぉーなく、パヒぃーノルテぇ。間もなくパヒノルテ。終点でございまぁす。どなた様も、切符をお手元にご用意ねがいまぁす」
車掌さんが唄うような節回しと一緒にやってきて、通り過ぎて行きました。
みんな無言で、それか、ひそひそと言葉をかわしながら降りる支度を始めます。
隣のお母さんが娘さんの置きどころを探しているのが見えて「あの」って声が出ました。向かいに座るおばさんより、ほんの少し、早かったみたいです。
「その子、ええと」
どういうふうに言ったら? でも両手を伸ばしたら伝わりました。
「ありがとう、しっかり支えてくださいね」
そんな助言と一緒に抱き取った女の子はしっかり重くて、そして「あの、この子とても熱いです」
「小さな子はそういうものよ」
これは向かいのおばさんから言われました。隣のお母さんは上の荷物棚から大きな革の鞄を下ろしながら「そうなんですよ、私も初めてで驚きました」って娘さんを引き取ります。
「助かったわお嬢さん」
「小さいのに偉いのね」
「いえ……」
顔が熱いです。
「お嬢さん、クレモントからお一人でシュダパヒまで?」
「はい。そのぅ、お母さんが病気で、お見舞いに」
「まぁ」
と、四人席に遠慮の空気が広がりました。
「それはお気の毒なこと。いつからお悪いの?」
いつから。
いつからでしょう。
「ずっと前からです」
その場はそう答えました。
汽車が駅について、ご夫婦とも母子とも別れて、いろんな大人や、その大人たちを酒場や歓楽街やキャブレに誘う御者たちの間をすりぬけながら進みます。
いつから、でしたでしょう。
三歳まで家族三人ですごした、記憶もおぼろげなマートル裏の家のころ。
そのあと、七歳か八歳ぐらいまで過ごしていた、大きな娼館の奥にある長屋。
そこを出てマートル裏に戻り二人で暮らした、
――私がどれだけ苦労してると思ってるの!
怒鳴られたり、ぶたれたり、締め出されたり、そういうのは全部、紅灯りの家で暮らすようになってからです。
いったい何が変わってしまったんでしょうか。娼館で働くのと、二階に紅灯りをともしてお客を取るのと、違いってなんでしょう。お母さんがおかしくなるような原因が、なにかあったりするんでしょうか。
わからないです。聞いたことも考えたことも、知ろうとしたこともありませんでした。
でも、一つだけ、はっきりわかる違いがありました。
おくすり。
妊娠しない薬と、病気を予防する薬。
――薬を融通してくれて助かるわ。前の勤め先で使っていたところは、私には売ってくれなくなってしまって。他のところは高値でしか売ってくれなくて、ほんとうに困っていたのよ。
物置の中で聞いた、お母さんの声。そして、それに応えていた声。
――なに、お安い御用さ。君の力になれて嬉しいよ。さあ、今夜も楽しませておくれ。
一年近く、あたしはこの声を物置で聞いていました。ひと月に一度ぐらいでやってくる男の人のものです。この声の持ち主に実際に会ったのは次の年、九歳のときでした。
あなたがお母さんに渡していたのは、ほんとうにみんなが使っていた薬と同じものでしたか?
エンリッキおじさん。
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