48. 泣きながら帰りました

 表情が動いたのはいちどだけ。

「ああ、いと」

 と刺繍ししゅう糸をほどいたときだけ。


 知らないひとみたいでした、お母さん。

 表情がとくになくて、話す声はなんだかとしていて、でも、目だけが色んな方向にゆらゆら動いていました。

 見えない蝶々を追いかけているような。

 前に来たときにはぐるぐる変わっていた態度が今日は、中からお母さんの目玉を動かしているみたいな。

 そんな感じでした。

 「蝶は誘い惑わす」って魔法もありますから、まさかと思って魔力視を開きました。でも部屋の隅っこでヒタカクシネズミがペンのフタを羽目板の隙間に押し込んでるぐらいで、他は出てません。


 無愛想な職員さんに連れられて、漆喰くずが細かく散らばる階段を昇ります。お部屋の扉に手をかけると、お母さんは思い出したみたいに言いました。

「ありがとうございます。立ち会っていただいて」



 この日、あたしは療養所から駅までの道を、泣きながら帰りました。

 


 古い鉄のベッドにぺたんこのマットレス。小さな丸い机と椅子。茶色いガラス瓶に刺さった、薄紅色の知らないお花。

「あのぅ……」

 お母さんはちらっとこちらをみて、すぐにふわふわと注意が散っていきます。ベッドに座ろうとして、やめて、ガラス瓶の花に手を伸ばしてみて、やめて、ガラス瓶を持ってみて、戻して、椅子の背中に手をかけて、やめて、また手をかけて、やめて、また手を。

「座りますか?」

 止まりました。

「座りましょうよ」

「あ……ああ、そうね。座りましょうね」って言ってるのに動きませんから、もう一度「座りましょ?」って声をかけました。

 見守りながら、促し続けたら座ってくれました。座ったまま、だんだんゆらゆら落ち着かなくなってきましたが、あたしはとにかく鞄から糸を取り出しました。

 茶色くてがさがさする紙の包みを開いて、真っ白な刺繍糸を見せて「買ってきましたよ」って差し出します。

 お母さんの目がうろうろするのをやめました。

 視線は頼りないままですが、藍色の目はちゃんと糸を見ています。

「あの、どうぞ……」

 お母さんの手に糸を渡したとき、あたしの指先はひんやりしたお母さんの手のひらに触れて、でもお母さんの手は糸だけつれて行きました。

 細長い指が糸を束ねる帯をするりと外し、糸束をまるくほどいて親指にかけました。


「ああ、いと」


 そんな顔、するんですね。

 いちども見たことない顔。

 嬉しい顔とも、楽しい顔とも違う顔。優しい顔。知らない顔。


「針とハサミ借りてきます」

 あたしは部屋を出ました。階段をおりながら、用事があって良かったって思いました。

 なにか乱暴なこと、例えばガラス瓶の花を投げつけるとか、そういう事をしたくなってました。

 あたしが買ってきたのに。

 あたしがお金払ったのに。


 療養所の受付のところで刺繍針、刺繍枠と糸切りハサミを借りて、シュシュがいるから鞄にはしまわずに、戻ります。ハサミを握ってキシキシさせてたことに、扉を開けようとして気が付きました。

 

「シュシュ、出てきていいですよ」

 あたしは鞄のへびに声をかけます。群青のへびが黒い目と閃く舌を覗かせて、あたしの腕を昇って来ます。

 お母さんを驚かせたくないなって思ってたんですが、どうせ気にしませんよね、って意地悪な気持ちでお母さんの丸机に刺繍の道具を置きました。

 ほら、気にしない。

 

 机にはいつの間にか、見覚えのあるハンカチが出してあって、それはお母さんが大事な用事のときに使っていた古い白ハンカチで、遠い南の島の綿を使った、とても良いものだって聞かされたのを覚えています。

 ハンカチの隅の方になにか描いてありましたが、線が薄くて、それが何なのかよくわかりませんでした。


 お母さんは針に糸を通すと、ハンカチを手にとって、最初のひと針を刺しました。

 刺繍枠、使わないじゃないですか。

 腹が立ちました。ベッドに乱暴に座って、そのまま横倒しに寝ました。

「シュじんー?」

「ごめん、シュシュ。すこし放っといてください」

 行儀が悪いとか、みっともないとか、そういうことも言われません。

「男の子から買ったんですよ、その糸」

 だとかなんだとか言わないんでいいんですか? って思って口にしましたが、ハンカチに糸が通って行くだけです。

 古ぼけた白いハンカチに、真新しい白糸しらいとが引かれて行きます。


 することもありません。話すこともありません。あたしは寝転がって、糸と、針と、お母さんの大きな胸が上下するのを見ていました。

 それで、気づいたんです。呼吸の感じに覚えがありました。

 お母さん、魔力の呼吸してる……?

 魔力視も開いたら、碧い魔力の粒がほんの少しお母さんに入っていって、刺繍糸へ流れるのが視えました。

 魔法使いじゃなくても、そういうひとはいます。なにかに没頭したときに、魔力を取り込むひと。例えば絵描きのエスタシオさんもそうです。

 お母さんが、何年か前に言っていました。

 昔、エスタシオさんの絵のモデルをしたときに、空気になにか流れを感じたって。光のようだけれど眩しくない、水のようだけれど冷たくない流れだったって。

 だからあたし、お母さんが魔力を感じられるのは知っていました。

 でも、魔力を取り込むところは初めて見ました。


 を曖昧にして、あたしたちのいる所よりも、一枚分うらがわを感じる。


 いつの間にか、あたしはお母さんに合わせて魔力の呼吸をしていました。

 吸って、溜めて、流して。じんわりと身体が熱をもちます。

 何度も息をして、黙々と針を動かしていたお母さんは急に

銀梅花ミューテが好きだったはずなのよ」

 って言いました。


「ふたり、ふたりのどちらかが、そうなのよ。ふたりいたはずなの。なのに、わからないのよ。思い出せないのよ。頭の中が霞んで、軋んで、どちらもわからないの。名前も顔も混ざってしまう」


 魔力の呼吸をしながら、あたしは聞き、お母さんは針を運びます。


銀梅花ミューテの花も実も、好きで。小さな花に顔をくっつけて。丘の、丘の上で実をたくさん摘んだはずよ。そのはずなの。夏が終わって。ああ、夏がもうすぐ終わるわ。終わってしまう。だから、今日じゃなければいけなかったわ。次はまた、来月の中頃だから、そうしたら間に合わない。今日、やってしまわなければ」


 それは独り言のようで、でもあたしは身体を起こしました。


「だって、もうすぐ、じゅ、十四才。そうよ十四才だわ。十四才になるの。来年には大人になってしまうのよ」


 お母さんがハンカチの裏側で丁寧に糸を引き、ハサミで切りました。


「だから渡して欲しいの」


 古いハンカチに新しい糸でかたどられた、つやつやとした小さく白い花。まるい花びら、細くてたくさんの雄しべ。銀梅花ミューテの花。つんとして、でも青々とした香りを感じました。手を引かれてのぼった、丘の上の香り。ごそごそした葉っぱの音。

 ――実がなったらシロップ漬けにしましょう。冬になったらお湯で割って飲みましょうね。


「間違えないでちょうだい。夏が終わると、誕生日がくるほうの娘よ。そうよ、そうなの。夏が終われば、誕生日なのよ。十四才の誕生日なの」


 この日、あたしは療養所から駅までの道を、泣きながら帰りました。

 九月四日。あたしは十四才になります。

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