44. 小さなおじさんに会いました
シュシュはしばらくの間、じっと動きませんでした。
あたしはアコーニの事を許してほしくて、でも一方では、屋根裏でシュシュに初めて会った時のことが頭から離れなくて。
あの夜、暗い物置で弱りきっていた一匹の
許してあげてなんて、言えない。
「シュシュ……」
その首が、ゆっくり左右に振れ始めました。びいいいいい、びいいいい、とちいさく呻いています。
それがだんだん大きくなって、あたしもベンチの前に膝をつき、群青の身体に手を伸ばしました。
指先が首に触れるなり、へびがぐねりと曲がって巻き付いてきます。みりみりとあたしの腕を這いのぼって、二の腕あたりを控えめに噛んで、器用に胴体を二つ折りにしたかと思うと尻尾をあたしの袖から中へと差し入れて来ました。
「ちょっと……! いたいですよぅ」
何も言ってくれません。ついに頭も引っ込みました。お腹をきつめに締められて、圧迫感がありました。傷にはなりませんでしたが、噛まれたのは契約の時以来です。
「どうしちゃったんですか? 返事ぐらいしてください」
びぃぃぃぃ、びぃぃぃぃ、ってくぐもった鳴き声だけがしています。
お腹をもぞもぞされていて、なんとなく、雰囲気的に、イヤイヤをしてるみたいでした。命令すれば、って少し思ったんですが、いま命令で言うこと聞かせるのは間違っている気がします。
あたしもアコーニもベンチの前に膝をついたままです。このままではどうにもなりません。顔を見合わせて、とりあえず立ち上がって膝を払いました。
「あの」
「いいの」
アコーニが首を振ります。
「それだけのこと、したと思うの」
アコーニが無言でうなずいて、二人で歩き始めました。シュエットは鞄のベルトに止まり、シュシュは隠れたままです。
「ゆるさなイ」の一言が刺さったきり、ずっと抜けません。
それがどうしてなのか、あたしにはわかっていました。
あたしもずっと許して欲しいんです。でもきっと、許されたりはしないんだってこともわかっているんです。
だから、誰かが誰かを許さないとき、あたしは怖いんです。それがシュシュだったから、なおさら。
なのに、アコーニに尋ねてしまいました。たぶん、きっと、確認するために、尋ねてしまいました。
恋人の楽譜売りさんの手は治ったのか。ちょっとずつでも、アコーディオンを弁償できないか。せめて謝る事はできないか。
アコーニは言いました。
「……ごめんね。気持ちだけで、いい」
怪我は治って、やっと最近、ちゃんと弾けるようになったんだそうです。
それ以上の事は言ってくれませんでした。
街のどこかで楽譜売りさんを見かけたとしても、それがアコーニの恋人さんかどうかはわかりませんし、わかったとして、どんなふうに謝ればいいでしょう。そして、あたしは全部で何人に謝ればいいのでしょう。
無理です。無理ですよ。
取り返しはどうしたってつかなくて、みんなから許してもらえることなんて、ない。
その事実が急に、すんなりと胸に入ってきました。
受験票探しをあきらめて、馬車に乗った時の気持ちと同じでした。
許されないんだね、って気持ちをおんぶしたまま、今夜も明日もごはんを食べるんだと思います。
――悪い事したからもう絶交とか、ぜったい許さないとかは、言いたくないんです。
前に、チェムさんにそう言いました。
あたしもそう言って欲しかったのかもしれません。
そんな事を考えていたら、曲がり角でばったりと、小さなおじさんに会いました。
小さな、って言っても、あたしと同じぐらいの背丈はあります。白くて涼しそうな麻の帽子をかぶり、「はて?」って顔をしてました。
あたしは思わず顔を伏せました。
だって、おじさんは、婆猿騒動の時にあたしが利用して、とてもとても迷惑をかけ、そしてたくさん怒られた「画家のおじさん」なんです。
ちゃんと謝ることができて、いちおうは許してもらえた、たった一人のひとです。でもその時にお母さんを泣かされてもいましたから、顔を合わせづらいです。
あたしが誰なのか思い出せていないみたいなので、知らないフリできないかなって思いました。
「先生?」
ってアコーニが驚いた声をあげたので、きまり悪く顔を上げましたけれど。
おじさんの少し後ろ。黒い装いで背が高い女のひとが「おやおやぁ」と立っていました。
「また会ったねえミミズクのお嬢さん。経過はどうだろう? 傷が
いもっ?
「傷は大丈夫です。隣は妹では、なくて……。
「ああ同僚さんか。これは失敬したね」
からからと車輪が回るようにしゃべる女のひとへ「紹介しますね」とアコーニは言いました。
「こちら同僚の、エーラ・パコヘータです。エーラ、あの
「ユベニー・セレーランだ。こう見えて医者だよよろしくお嬢さん。それじゃあわたしも高名にして有名な
お医者のユベニーさんがしゃべる間、あたしはおじさんの顔に納得と驚きが現れ、消えるのを見ていました。
この様子にユベニーさんは「おやおやぁ?」って感じに首をかしげ、何もいいません。
おじさんは、ふむ、と軽く息をついて言いました。
「まさかの君か」
「あの……ごぶさた、してます。エスタシオさん」
「働いているのか。魔法使いとして。いつから」
「三月の終わりの……以前にお会いした日の、夜からです」
「そうか」
そうか、っておじさんはもう一度くりかえして、言いました。
「見違えたな」
「髪、切ってもらいました」
「そういうことではないよ」
呆れられました。でも、あんまり嫌な感じもありませんでした。おじさんは白と茶色の混ざったあごひげをこすり、ふむ、ふむ、となにかを考えるように何度か頷くと「僕が言うことでもないが」って前置きして言いました。
「がんばれよ」
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