40. へびは、空気を色づける
耳に音があることを、目に光がうつる事を、少しのあいだ忘れたような気がします。
舌の上に乗った空気は、いろんな泥を混ぜて作った
頭をゆっくり振って煮凝りをもろもろ振り落とせば、寮の壁に似たあじだったり、午後のカーテンのあじだったり、知っているあじが舌をなぞって落ちるのも感じられました。
目を閉じて、空気のあじを、小さく小さく、泥の一粒一粒を選り分けるみたいに探っていきます。
粉をふるいにかけるみたいに、余計なものを落として、また舌にすくって、ふるって。
膝を曲げて、低いところの空気をすくって、ふるって。あじの組み合わせが変わります。
もっと感じる力を。もっと広く。もっと細やかに。
意識を広げて、身体の境目を曖昧にして、シュシュの意識の深い所へ手を伸ばして。
そっと半歩動いては空気を乗せ、ふるい、膝を曲げて、乗せ、ふるい、また半歩動いては空気を乗せ、ふるい、膝を曲げて、乗せ、ふるい、かすかに。
かすかに。
舌の上に残った、覚えのあるあじ。
革と、紙と、インクと、アコーニの手と、その他の知らないものが混ざった空気のあじ。全部まざって、アコーニの鞄のあじ。
動けば紛れて消えてしまいそうな空気は、どっちから。
知りたい。でも動けない。もっと、魔法を。広く感じる魔法を、深く感じる魔法を。
シュシュの中に眠っている、まだ知らない魔法を。
あたしの腕をぎゅっと締めるシュシュの身体。そのシュシュの意識が、あたしの背骨を伝ってきました。
へびの、閃く舌先の感覚。
あたしの身体とシュシュの身体がひとつになったみたいに感じました。あたしの腕からへびが伸びているのはあたりまえのことで、へびの舌が感じた味をあたしが感じるのも同じようにあたりまえ。
腕から伸びたへびの舌が閃くたびに、腕の先で空気のあじを感じます。
あたしの舌とシュシュの舌、両方で感じるあじの組み合わせの違いが、あじの濃さの違いが、広がりになって色づきます。
へびの舌で感じる、目では見えない空気の色。
へびは、空気を色づける。
細い糸のようにただようアコーニの鞄の空気。その糸の伸びる方へ、少しずつ進んでいきます。
あたしの舌を真ん中に、上へ、下へとシュシュを動かし、手探りをするように空気を探って進んでいきます。
目は開いているはずですが、何を視ていたのかわかりません。
耳は聞こえているはずですが、何を聞いていたのかわかりません。
気を抜けば切れてしまいそうな空気の糸はどんどん太くしっかりしていきます。
あっちへふらふら、こっちへふらふらと落ち着きなく動き回る糸を追いかけていき、でも突然その糸は膨らんで途切れました。途切れたところに手を伸ばして、柔らかい何かに手が。
「よーし、もういい。少しずつだ、少しずつ魔法を解け。こっち側に戻ってこい。身体の形を思い出せ。少しずつ、少しずつだ。そうだ、戻って来い。もういい」
身体。あたしの身体。頭と、首と手と足とへび。
しゅうううううう。
鼻息が聞こえて、へびは、へびは。
「シュじんー」
へびは、あたしじゃないです。
手の先が、プントさんの掌にぶつかっていました。
目の前に、だれかの家のくたびれた扉。
汗だくのあたし。首に巻き付いてくるシュシュ。
「この家なのか?」
ってプントさんの声がしました。
「慌てなくていい。思い出せ。魔法で何を感じていたのか話せ」
「あの……鞄の空気、鞄の匂いを追いかけて、それが、ここで」
「なるほど? ……今度からは、いきなり動き出すのは無しにしろ。周りが見えなくなるんならそう言え。危なっかしくてかなわん」
あたしはぼんやりしていて、叱られたんだとわかった時には、プントさんが扉を叩いていました。
「夜分にすみませんなぁ。魔法協会の者なんですが──」
この家の六歳ぐらいの男の子が、あそこの路地裏に落ちていたのを拾って持ち帰ったんだそうです。返すのがイヤなんだそうで、鞄を胸に抱えて泣きだしました。
プントさんが親御さんに事情を説明していましたが、その声がなんだかぼわぼわしていていました。あまり頭が働きません。
隣でキャナードがなにかごそごそしていて、落ち着かないなあと思っていたら、にゅっと手が伸びてきました。
黄色の、妙に可愛らしい生地でできた、小さな巾着が乗っていました。
「ん」
「ん、ってなんですか」
「塩。パコヘータちゃん、魔法たくさん使っただろ。いるかなって思って」
「……ありがと。ございます」
一粒もらって舐めた塩は、とても美味しくて、指先にまで染み渡るように感じました。ぼんやりしていた感じる力が、ぴんぴん
魔法は魔力と、体力と、塩気の三つを引き換えにするって知ってはいましたが、こんなに塩が美味しく感じるなんて、びっくりです。
それだけ塩気を使っていたっていたってことなんでしょう。
「キャナード」
「ん?」
「ありがとうございました」
「ん……」
それで、どうにか返してもらった鞄は、空っぽだったんです。
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