36. 我が輩はミラベルを所望するぞ?
「ど」
こですか!?
ってききそうになりました。口を引き結んで食い止めます。念送りで伝わるのは、気持ちとか雰囲気とか、ぼんやりした内容だけです。
わかんない、って感じにジケが首を振り、しーっとスーリが指を立てました。
スーリは顔だけこっちを向いて、でもちいさな黒目は窓から見える夜空の、そのまた向こうをじっと視ていました。
口元でふつふつと呟いています。
「シュエット……
ひゅっ、とスーリが息を飲みました。顔から血の気が引いて、何もいいません。真っ青な顔のあとには何か怖いことが待っていそうで、あたしはスカートを握りしめました。向かいのベッドからも、ジケがスーリを見つめていました。
そうやってあたしたちは、次の言葉を待ちました。
「……今から、イコが戻って来る」
「何を聞いたの? 何が視えたの? ミーミーはまだ、シュエットにしか会えてないみたいで!」
詰め寄るジケを手で押さえて、スーリが絞り出すように言います。
「アコーニの、服が……いつもの服が、血で、汚れてて。……今は大丈夫みたいなんだけど、とにかくイコを待って」
血で汚れた服。
息が苦しくなりました。
いつかの夕方。
マートル裏の細くて暗い路地。
そこに挟まるように倒れていた男の人の服。
茶色いズボンの腰や、分厚い上着の胸いっぱいにぬめっていた、あの赤黒い汚れ。血の汚れ。
三歳のあたしが見た、どろっとした目。顔にかかる髪。そこにまとわりついていた数匹の蠅。
かわいそうだと思って蠅を追い払ったら、急に手を掴まれて、あたしはだんだん怖くなって泣き出してしまって、それから、どこかの誰かにつまみ出されました。
次の日の朝、その人はあたしの家のベッドにいて、お母さんが泣いていました。
あれがお父さんだったんだと思います。
アコーニ、大丈夫なんですよね? 朝が来たら死んじゃったりしないですよね?
でも、そんなことジケにもスーリにも言えません。言いたくありません。だって、ジケやスーリの方が前からアコーニを知っていて、仲が良くて、あたしよりずっと心配なはずなのに、あたしだけぴぃぴぃ言うなんて、変です、いやです。
ジケがミーミーからなにかを受け取ったみたいで、息を詰まらせ、まるまっちい右手でスーリの右手を握りました。
スーリが握り返しました。
ジケが何を視たのかわかりません。あたしは、なにもわかりません。
でも立ち上がって、スーリとジケの間から、二人の手の上にあたしの右手を置きました。
二人と目が合いました。少し驚いているように、なにごとかと聞きたがっているように見えました。
自分が形だけマネしているの、わかってましたし、二人に嘘をついてるような、そういう申し訳なさに耐え切れなくて、あたしは目を下にそらして、でも言いました。
「おいて行かないでくださいよぅ。あたしも一緒です」
スーリの左手が、あたしの手の上に重なりました。
そのまましばらく。シュシュがベッドから這いおりて、あたしの左脚から登って来て、そのすぐ後。
「来た」
とスーリがあたしたちの手を離して窓を開けました。みんなの手が離れて、夜風に手がひんやりします。
窓から灰色の塊がばさっと飛び込んできて、ジグザグに部屋を一周してから窓枠にぶら下がりました。
「
「あるよ。おつかれ」
クルミぐらいの黄色い果物がひとつ、いつの間にか机に出ています。
果実に覆いかぶさったイコが、ぱかっと開いた口には、鋭い牙がノコギリみたいに並んでいました。
その牙が
ぺろりと
「ミミズクの
ひったくりに突き飛ばされて、その先に馬車がいて、客車に横からぶつかったアコーニは、昇り降り用の
たまたま馬車が止まろうとしている所だったから、車輪に巻き込まれずに済んだって、そう言っていたそうです。
「
へなへなとジケが、ベッドに横むきで倒れました。イコが机から飛び上がって、また窓枠にぶら下がりました。
「怪我はどうなの? ひどいの?」
スーリの質問にイコが答えます。
「およそ六
「そっか……よかった」
「跡が残っちゃう」って泣きそうなジケを、スーリがたしなめました。
「わかるけど、あんたアコーニの前でそれ言うなよ?」
聞けば、そのお医者さんが市の警邏本部まで連れて行って、手当もしてくれたってことでした。治療に使える設備があって、一番近いのがそこだったんだそうです。
ミーミーはまだ帰れない、ってジケが言いました。警邏さんの仕事は時間がかかるのかも知れません。「あの、イコ?」って、あたしはひとつ気になっていたことを尋ねることにしました。
「どうした釘蛇の主」
「アコーニは、どこに行っていたんですか?」
イコは「聞いていない」と答えました。
どこに行っていたのかは聞いていないけれど、ひったくりにあった場所は第二
「なんでそんなこと気になるの?」ってジケ。
「その、あたしアコーニと談話室で待ち合わせしてたんです。なのにどこに行ったんだろうって……」
「受験手続きだ」
スーリには、わかったようでした。
「
あたしに説明しながら、スーリの声はどんどん重くなっていって、ついに頭を抱えて、両腕の間から呻くような声が漏れて来ました。
「あの子、書類も盗まれたんじゃん……!」
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