32. あたしもあなたも大丈夫
くそが、って言う前に黙らされました。
いえ、黙ったつもりはなかったんです。
アコーニの魔法が、あたしから音を持って行っちゃったんです。
「ミミズクはしじまをすべる」
ぽそぽそした声といっしょに左手を握られたとたん、耳が消えてなくなったみたいに感じました。
空気は喉でぴりぴりと震えていたのに、音になりませんでした。
寮生や使い魔たちがおしゃべりしながら、すぐそこを通り過ぎていたのに。街の人たちはこっちをみてひそひそ話していたのに。ルーランさんがあたしを降ろして、周りの人に何か声をかけていたのに。
聞こえませんでした。
魔法です。わかっていても、頭が変になったんじゃないかって思いました。
緊張したシュシュがあたしのうなじを締めて、ひっきりなしに舌をひらめかせています。あたしは「大丈夫ですよ」って言ってみましたが、音にはなりません。
背骨にかかった糸の結び目、使い魔とのつながりから、じわじわと不安な気持ちがしみこんできます。
アコーニの緑の目ふたつと、シュエットの橙色の目ふたつ、あたしをじーっと見る四つの目。瞳が開いていて、魔力を視ているのが分かりました。
その目からも、あたしの左手を握るアコーニの右手からも、乱暴な気持ちなんてちっとも感じられないのに、肩はひんやりしてきて、心臓がぎゅっとしてドクドクいいます。
古い綿毛みたいなシュエットの空気や、パンを包んだ新聞紙みたいなアコーニの空気の味が舌に乗っかってきます。
息が浅く、早くなります。あたしの身体が不安に流されていきます。
しっかりしなくちゃ。
だってこれは、シュシュの不安。
主人のあたしは、しっかりしなくちゃ。
背骨から流れてくる、怖がりなへびの気持ち。あたしはその流れを「だいじょうぶです」って押し返しました。
シュシュ、しっかりしなさい。だいじょうぶです。大丈夫。アコーニはあたしたちを傷つけません。だいじょうぶです。あたしもあなたも大丈夫です。
あたしの心臓のドクドクと、シュシュの舌のひらめきが、お互いに譲りあうみたいに緩んでいきました。
しーっ、って形にアコーニが指を立てて、さわさわと聞こえ始めた音が、だんだん聴き分けられるようになっていきます。
その音の中に、ルーランさんの声が入りました。
「あ、魔法終わった感じ? ありがとね。――エーラちゃんさぁ、おれたち意外と見られてるんだから、騒ぎも乱暴な言葉遣いもマズいって。班長さん誰だったっけ? 教わんなかった?」
でも、だってルーランさん!
「すみません。私、同じ班です。お手数、おかけしました」
魔法から戻ったばかりのあたしより早く、アコーニが応えました。手が離れて、あたしは完全に自由になりました。アコーニの白い手はさらさらしていて、でもペンを持つところだけ硬かったです。
「……まあ、あれだよ、あれだ」
困ったようにあたしたちを見て、ルーランさんが頭の後ろを指でこすりました。
「事情というか、噂というか、そういうのはおれも聞いちゃいるんだけど……ともかくさっきのやつらには、おれから言っとくからさ。君らもしばらくおとなしくしとくってことで頼むよ。じゃあおれは行くからな。遅刻しないように急ぎなよ」
そして、そそくさと協会へ歩き出します。
その背中に使い魔が、こぶみたいにへばりついていました。上着の紺色と同じ色になっています。ルーランさんの使い魔は、なんでも『タコ』っていう海の妖魔? なんだそうです。
たゆんたゆん揺れて遠ざかる紺色のこぶを見送って、あたしも行かなきゃと思ってちらりとアコーニの顔を見上げたら、なんとも言えない顔で目をそらされてしまいました。
「あのぅ……?」
「うん」
ぽそっと返事があって、アコーニが歩き出しました。ついていかないのもなんだか変ですから、あたしも行きます。しばらく進んで、また、ぽそっと言われました。
「いきなり、魔法、ごめんね。止めなくちゃと、思ったの」
「あ、いえ……」
止められなかったら、少なくとも「くそが」は言いましたし、きっともっと汚い悪口を思いついていたかもです。ルーランさんから注意された事は、ペルメルメさんからも教わりましたし、その時は「そうなんだ」ってちゃんとわかったつもりだったんですけど……
「ごめんなさい。ああいうの、ダメでしたよね」
「ダメだけど……でも、私も、言い返したかったの」
「アコ」
ーニも前みたいに怒ればよかったんですよ。
って言いそうになりました。でも前ってつまり釘蛇の夜です。蒸し返すのよくないです。どうにか途中で止めて、かわりにこう言いました。
アコ
「ーニの……さっきの魔法すごかったですね」
不自然だったでしょうか。
アコーニは
「すごくなんて、ないの」
ぽそっと、でも、どこか硬い声で続けました。
「……私は、全然、ない」
おしゃべりはまた途切れてしまって、でも協会まではまだ少しあります。
なんだか、難しいです、アコーニ。
あとちょっと何か、って考えて、馬車道を行く自転車に追い越され「自転車って」とあたしは口にしました。
最初にルルビッケの話をした時みたいに、お互いに「そうだね」って感じになれたらいいんじゃないでしょうか。
「――あんな転びそうな形なのに転ばないの、不思議ですよね」
「
かいてん、ら……?
「私も聞いたり調べたりしただけで、そんなにわかってるわけじゃないの。でも、そのふたつの物理効果で安定しているんだって。
「待って。待ってください、わかんないですよぅ。魔法のお話ですか?」
「ううん。力学。……ええとね、魔法が干渉していない基礎状態で、どんな力が物体に働いているか、とか、どういった規則で力が働くかを追求する学問、なの」
「がくもん?」
なにひとつわからなくて、なんだか悲しくなってきました。
「……ごめんね、おしゃべり上手じゃ、なくて」
アコーニがぽとぽと声を落とします。あたしもつられて視線を落としてしまいます。とにかくたくさんお話はできたんですが……難しいです。もう協会に着いてしまいます。
「エーラ、ちゃん」
急に名前を呼ばれて、あたしは勢いよく顔を上げました。見上げたアコーニのほっぺたは、ほんの少し力が入っていました。
「今日、夜学終わったら、少し話したい。談話室?」
「います!」
大きな声出ちゃいました。
その談話室にですね、来なかったんですよ。アコーニ。
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