29. 猫の舌、銀行屋の秘密、卵白の綾織
命令。
そう口にしたとたんに、シュシュの身体がぶるっと固くなりました。あたしのわき腹や背中や首筋にその震えが触れて、お腹の辺りがひゅっと冷える感じがしました。
始めのうちは、普通に言って落ち着かせようとしたんです。
たとえば「もう怖くないよ。シュエットもアコーニも、痛いことしないよ」ってなだめたり、アコーニたちが見えないようにシュシュの頭を掌で隠してみたり、でもシュシュはあたしの手をすりぬけてしゅうしゅうと息を吹いては噛みつく素振りをして、ぜんぜん落ち着いてくれませんでした。
シュエットもアコーニの肩の上で羽根を広げて「いつでもたたかえるぞ」って感じで、大きくて怖いです。
アコーニの顔は膨らんだ
「シュエット。命令。
とたんに、膨れていたミミズクが「しゅん」としぼみました。
「あなたも、ちゃんと命令して」
「私、別にひまじゃない」
それで、あたしは背骨にきゅっと結ばれたシュシュとのつながりを意識して、言ったんです。
命令。
シュシュが使い魔になってすぐ、使い魔の登録というのをしました。
あたし。魔法使いエーラ・パコヘータの使い魔は
使い魔がやったことは、主人の責任になる。だから、主人は使い魔を監督し、必要に応じて命令しなければならない。
学科でも同じことを教わりましたし、ルルビッケやスーリやペルメルメさんや、もちろんチェムさんにも言われました。冗談が最低なルーランさんにも、調査部の室長にも言われました。
命令。
「い、今すぐアコーニとシュエットにしゅうしゅう言うのをやめて、おとなしくしなさい」
シュシュが止まりました。
襟元から伸びたシュシュの身体の、喉元のあたりがあたしの右手に乗っかっていて、口は中途半端に開いて、あとはぴくりとも動きません。まっ黒でころんとまるい瞳は何も見ていないみたいで、まるでシュシュじゃなくなっちゃったような気持ちになって
「――シュシュ」
「ンー?」
振り向いてくれました。ふいに、鼻がツンとしました。
「シュエット、屋根、行ってて」って短くアコーニの声がして、ミミズクがお菓子屋さんの屋根へと飛び上がります。
「お店入るなら、蛇くん、どこかで待たせるか、何かにしまうか」
独り言みたいに言うと、アコーニは四角いカバンを背中から下ろして掛け金を外しました。
綺麗に整理された中身がちらりと見えました。舌先に乗る空気のあじが模様を変えました。どこか覚えのある匂いがしました。
すこし口をとがらせて、ぽそぽそとアコーニが言います。
「この中入って。いいよ。蛇くんが嫌かもだけど。外で待たせるより、こっちが安心だと思う」
こんなふうに、自分の持ち物を使わせてくれるとは思っていませんでしたから、あたしは驚いてその顔を見上げてしまいました。肌が
「なに、見てるの?」
「なんでもないです!」
あたしはすぐにシュシュにお願いしました。
「アコーニのカバンに隠れててください」
シュシュは動きません。
「言う事ききなさい」
これでようやく、あたしの使い魔はずりずりとカバンに隠されたのでした。
お店のドアをおっかなびっくり開けます。
ちん……ちちりんりん……ちん……
金色のベルもコソコソと鳴ります。
痩せて背の高いお店のご主人は、ようやく入ってきたな、って顔をしながら「いらっしゃい」と低く言いました。
汚いガキは出てけって言われなくてよかったです。
あたしは真っ先に鼻から一度、口から一度、大きく息を吸いました。頭の中で卵がくるくる回る様子が浮かびました。たまご! それからバター、
舌と鼻とで感じた空気がどんどん結びついていきます。空気のあじでお菓子のあじもわかればいいのに! って思いました。そのうち、頭がくらくらしてきました。スーリの
「どんなの買うのか、決めてるの?」
アコーニの声を頼りに、ぐるぐるした頭を落ち着けました。どんなのと言われても、どんなお菓子があるのかわからなかったぐらいですから、首を横に振ってこたえます。
ふぅん、ってアコーニはお店を見回すと「あれか、あれか、あれ」とてきぱき指差しました。
そしてあたしは今、きゃーきゃー声を上げるルルビッケに力いっぱい抱きつかれて、手足をあわあわさせています。
「もー、なによー! うれしー!!」
背の高さが違いすぎるからでしょうか、なぜか足まで浮いちゃって、あの、ちょっと、ルルビッケ、苦しい苦しい死んじゃう。
まとめてシュシュもぎゅうぎゅうされたんですが、下へとするする逃れてスカートの下から首をもたげ「やめテー」ってお願いしてくれました。
それを見たルルビッケが大笑いして、あたしを床に下ろします。あたしはシュシュの身体を掬うように持って、スカートの下から出てきてもらいました。
「今のすっごい面白い! 班のみんなにも見せようよ!」
「やーでーす!」
シュシュを首にかけます。ボンシャテューが窓の桟へと離れます。
アコーニが候補に選んでくれたお菓子は「猫の舌」「銀行屋の秘密」そして「卵白の綾織」の三つでした。持ち運びしやすい焼き菓子の中で、定番だったり、人気があったりするんだそうです。
早く選べ、っていう空気も多少あったんですが、目が回りそうな中で、あたふたしなくて済んだのも事実です。
「明日、家族にも自慢するねー」
「い、いいですよ。恥ずかしいですよ。さっさと食べちゃってください」
「えー、もったいないよー。開けていい?」
どうぞ、って促します。長い指が小さな箱のリボンを解いて、包み紙を開きます。
「
「あ、あの、色も名前も、きれいだなって思って。それから、中に木苺のジャムが挟んであるんです」
「それならいよいよ家族に自慢すべきー」
どうして? って首を傾げました。
「あはは。だってわたしの名字ファンボアーズだよ?」
そうでした、
「違いますよ!? そんなしゃれを利かせたみたいな、そんなつもりじゃないです」
「いーの。自慢する。だってだよ? ちゃんと散髪代もらったの初めてなんだもん」
そばかすの顔をくしゃくしゃにさせて笑うと、ルルビッケは
「じゃー、明日から一週間。広い部屋を楽しんで。おやすみー。シュシュくんもおやすみー」
ルルビッケとボンシャテューがそれぞれの寝床に入りました。あたしはシュシュを机の上にやって、部屋の明かりを落としました。
「おやすミー」
「おやすみ」
明日から、シュシュとふたりきりです。
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