最果ての古本屋

青海老ハルヤ

蜜柑

 いつものようにマージは半分寝ているようにしてその小説を読んでいた。いつからこうし始めたのか、自分でも分からない。腰も曲がり、腕も望むように動くことはなくなったが、しかし悠々自適な生活に障害は何一つなかった。運営している古本屋に客は何年も見えていない。今日もそんなごくごく平凡な日だろうと、マージは周りを気にしていなかった。だから、大気圏に入って発光する何かを見てはいなかったのだ。

 突然大きな衝撃とともに轟音が星中に響き渡った。マージは読んでいた本に丁寧にしおりを挟み、それから大慌で家の外へ出ると、地平線の向こうにモワモワと黒い煙が立ち上っている。弱い重力に身を任せ、年齢に似合わぬ軽い足取りで、ぽわんぽわんと跳んでいくと、それは1人用の丸型宇宙船のようだった。

 マージは急いで駆け寄り、ドアをこじ開けると中には若い男性が苦痛に顔を歪めていた。青いジャージのズボンに赤い血が滲み出ている。

「ありゃ、こりゃいけないね。あんた、あたしに掴まれるかい」

 掴まれた手を取り、そっとその青年を運び出すと、青年は気を失ってしまった。マージはまたぽわんぽわんと跳んで家に戻り、救急キットを取ってきて、青年の足に向けてスイッチを押した。途端に救急キットは形を変えて青年の足に絡みつく。

「骨が折れてるね。これくらいなら2、3日で元に戻るから安心しな」

 意識を失ってるにもかかわらずマージは青年に語り掛けた。痛みに歪んでいた顔から力が抜け、元の好青年そうな素直な寝顔を見せていた。


 青年が目を覚ましたのはその夜だった。慌てて起き上がろうとする青年をマージは抑えた。

「まだ起き上がるには早いよ。もう少し寝てなさい。いいね」

「すみません。ありがとうございます」

 青年はぺこりと頭を下げた。顔に違わぬ素直さだ。こりゃあモテるだろう、とマージは値踏みした。

「名前はなんというんだね?」

「キヨシです。日本生まれなんです」

「日本! てことは地球から来たのかね!」

 マージは驚いて声を上げた。地球が住めなくなったのは随分と前の話だ。それ以前から来た人間ということは、キヨシが生まれた年はマージよりも前かもしれなかった。マージはやれやれと頭を振った。

「特殊相対性理論は本当に慣れないねぇ……あんた何年に地球を出たんだい?」

「××年です。それから宇宙船でX年かかりましたね」

「やっぱりねぇ……」

 マージが茶を出すと、「いただきます」と言ってキヨシは口をつけた。マージは思わず地球のことを隠した。

「ところで、マージさんはどうしてこんなところに?」

「ああ、酔狂な親が辺境の星で本屋をやりたいと言ってね。それからこっちなのさ。私も本好きだったからね今まで続けてきたが。元々は火星に住んでたんだけどね」

 口に出してからマージはしまったと思った。火星に人が住むようになったのは彼が地球を発ってから6年後の話だ。しかしキヨシは特に何も気にすることなく、「ああ、そうなんですか」と言った。

 ダメだ。この話はボロが出る。慌てて別の話題にシフトする。

「なあアンタ、本は読むかい?」

「本……ですか……僕はあまり読みませんね」

「ここは古本屋なのさ。仕入れた時は新品そのものなんだがね、私がみんな読むから新品ではなくなってしまう」

 先程読んでいた芥川の「鼻」を見せると、青年はあまり乗り気でなさそうにそれを見た。大きく書かれた鼻は可愛く描かれているが、もっときつい絵にしている作品もあった。

「初心者でも芥川は読みやすいと思うからね」

 手渡すと、キヨシはペラペラと捲り始めた。しばらくして読み終えると、パタンと音を立てて本を閉じた。あまり楽しそうには見えない。

「つまり、この小説は何が言いたいんですか?」

「さあね。自分で考えてみな」

 マージが突っぱねると再びキヨシはページを捲り始めた。こんどはじっくりと文を見直している。しかし、再び読み終わったときもあまり良くわかっていないようだった。

「コンプレックスも、自分がなんとも思わなければなんともないってことですか?」

「あんたがそう感じたならそうなんだろうよ」

 キヨシは解せない顔でまた本を開こうとするのをマージは止め、今度は「蜜柑」を渡した。読み終わったとき、キヨシの顔には朗らかさがあった。

「これは……面白いというか、いい気分になりますね」

「そうだろう。この小説を読むと蜜柑が食べたくなるんだ。いるかい?」

 マージが蜜柑を取り出すと、キヨシは「はい!」と手を伸ばした。

「蜜柑なんて久しぶりだ」

「これはうちの庭で取れたもんでね。ネットで買ったほうがもちろん上等なんだけど、うちにあるもんを消費しなきゃならないから勘弁しておくれ」

 しかし、キヨシは口に入れた瞬間目を輝かせた。夢中でしゃぶりつく彼に、マージも久々に胸に湧き上がる暖かさを感じていた。しかし、その顔はすぐに曇ってしまった。

「地球に帰りたい……」

「さあて、夕食の準備でもしようかね」

 聞こえていないふりをしたマージにキヨシは慌てて「すみません、遅れましたが助けてくれてありがとうございました」と言った。「ああ」とマージはそのままキッチンに歩いていってしまったが、キヨシはマージが目を細めたのを見逃さなかった。

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