第6話 マインドコントロールを受けよう!
「お前さん、今日もらった金額は10レジか?」
へとへとに疲れた僕がタコ部屋に戻ると、突然、一人の男に問われた。
どこか含み笑いをしていて、気味の悪い男だった。
……何だ、急に?
僕は僕の割り当てられたベッドに戻ろうとした。今日新人として入った際に、部屋の全員から使えと言われた、扉の真反対から、右の一つ目のベッドだった。
「おい、無視するなよ。どうだったんだ? 10レジだろう?」
僕に声をかけてくるやつはこんな声の掛け方のやつばかりだな、と思いながら、答えた。
「……そうですよ。はい。10レジでした。で、それがどうかしましたか?」
「いや、だったら大丈夫だ。何でもない」
一体何だというのだ。
僕は体力が底をついていた。
もはや考える気力もなく、その日はベッドに横たわった。
そのまま泥のように眠った。
◇ ◇
次の日。
僕はベッドの中で、昨日、クレメンタインから聞いた内容を
平均日給は50レジだと言っていた。
また、最低週五日は出勤してもらうが、あとは自由というか本人の意思次第だと言っていた。
ただ、シフトは先に出しておいたと言っていた。
その時点で不自然である事に気づけば良かった。シフトを先に出しおいた、というのはおかしい。
こちらの希望はまるで無視ではないか、と怒りを覚える。
僕は起床して、すぐにクレメンタインに話をつけに行こうとした。
昨日の疲れがまだ残っている。動けるような気がしない。
だけど、と思い、ベッドから体を上げた。
すると、部屋の中にいるうちの一人がこちらを見て鼻で笑っているのを見てしまった。
昨日とは違う男だ。
どこか嘲笑っているような態度だった。
僕は囚人服のまま、タコ部屋を出て、ビストロヘブンに向かった。
従業員寮とビストロヘブンはすぐ隣りの建物だ。
だから、僕はすぐにビストロヘブンについた。
ビストロヘブンはどうやら、モーニングもランチもやっているらしかった。
酒場ではなかったらしい。
僕は囚人服という事もあり、表から入るのをやめた。
裏の調理場から入っていこうとする。
だが、その調理場に入ろうとするタイミングで、昨日のシェフにばったりと出会ってしまった。
シェフが疑問を投げてくる。
「貴様、ここで何をしている? それも囚人服のままで」
「いえ……。その、クレメンタインに会おうと思っ--」
「貴様のような青二才が、店主に会おうなんて100年早いわ!」
シェフが怒鳴り声を上げた。
僕は昨日から、このシェフの怒声が嫌でしかなかった。
だから、すぐさまここから逃げ出そうとした。
「で、あれば、大丈夫です。すぐに--」
「貴様のような青二才には根性を入れ直す必要がある!! すぐに着替えて調理場に来い! 来なければ、今日の給料は無しである!」
僕は結局その日、クレメンタインに会えないまま、ディナーの終わりまで働かされた。
ずっと皿洗いだった。
◇ ◇
「お前さん、今日は30レジだっただろう?」
昨日と同じ男が僕に問うてきた。
僕は昨日よりさらにどっぷり疲れてタコ部屋に帰ってきていた。
男の質問に答える気はなかったが、この男は昨日少ししつこかった。
だから、そうですよ、とだけ答えておいた。
すると男はニヤニヤと満足気な顔になり、去っていった。
本当に異様なほどに気味の悪い男だった。
僕は昨日より疲れていて、すぐに眠りたかった。
だけど、眠れない。
僕の中では睡魔よりも興奮のほうが少し勝っていた。
僕は昨日より今日もらった金額が増えた事に少し嬉しさを感じていた。
もちろんクレメンタインに言いたい事は、いっぱいある。
けれど、体力的なやりきった感と、ちょっとの満足感を得たのも事実なのだ。
実際、僕は二日目にして少し皿洗いが上手くなったのだ。
それをシェフが見てくれていたという事も合わさって、充実に満ちた睡眠を得られた。
◇ ◇
次の日。
朝から起きられる体力などなかった。
夕方まで寝こけてしまい、あわや仕事に間に合わないところだった。
僕は大慌てで、服を着替える。
コックコートになり、タコ部屋を出た。
整列にはギリギリ間に合った。
今日もシェフに怒声が浴びせられる。
しかし誰一人文句を言わずに、サーイエッサー。
僕もまた、この空間に染まりつつあった。
今日も皿洗いのようだった。
もう僕にとって皿洗いなど、とても簡単な仕事だった。
1枚洗えば、すぐに1枚来るだろう。
けれど、僕もさすがに3日目だ。1枚を洗う速度が半端じゃないほど上がっている。
初日は皿を5枚も割ったが、もうそんな事はなかった。
なんの不自由もしないまま、簡単に今日の仕事終わらせてしまった。
これで今日もまた30レジ貰えるのだ。
正直、もっと上の皿洗いのレベルに行けるのでは、と思った。
仕事が終わった。
僕は列に並んだ。
「今日の貴様の働きは10レジである!」
列の最前線でシェフが僕に言った。
「へ……?」
「サーイエッサーはどうした?」
「サ、サーイエッサー!」
僕はその日、初日と同じ銅貨1枚をもらった。
手のひらの上に踊る銅貨1枚があまりにも、現実感がなかった。
僕はタコ部屋に戻った。
頭の中の全ては、何故僕の手のひらの中にある銅貨は1枚だけなのか、で満たされている。
あれほどに僕の技術は上がったのだ。
シェフは、僕を見たてくれていたんじゃなかったのか?
……僕はもしかして、ただただ浮かれていただけなのだうか。
もっと情熱を持って皿洗いをしなければならないはずなのに、それをしなかった。
それをシェフに見抜かれていた。
そういう事なのではないだろうか。
僕はタコ部屋の自分のベッドの上で、項垂れていた。
何をする気にもならなかった。
だから、突然の質問にも答えたくなかった。
毎日来る、あの気味の悪い男だ。
「お前さん、今日は10レジだったろう?」
「…………」
「そうだよな。そうなんだよな?」
男はまだ薄気味悪い笑みを浮かべて、問うてきている。
しかし、もう答えたくない。
完全に無視しようと決めていた。
「明日は40レジだぞ、お前さん」
すると、気味の悪い男はそう突然告げてきた。
何故そんな事が言えるのか。
ふと、思った。
だからか、僕は自然と質問を返していた。
「……何で、そんな事が言えるんですか? あなたに何が分かるって言うんですか?」
「何で、って、お前さんが貰える金額が既に決定されているからだろうが」
「……どういう意味ですか?」
「どうこうもねぇよ。ここにいる全員、新人の頃に、お前と同じ金額を1カ月ずっと貰い続けているんだよ。初日は10レジ、次は30、そして10に戻って次は40。するとまた次は10に戻るんだ。そしてそこからは--」
薄気味悪い男の言葉がそれ以上入ってこなかった。
どういう事だろうか、と僕は思考する。
………………。
…………。
……。
つまりもうビストロヘブンの給料は決まっていて、それを教えていないという、そういう話である事は理解できた。
もちろん歩合制ではないのだろう。
何故、そんな事をするのか。
とても簡単な話ではあった。
ただひたすら働かせる為だ。
僕はいつの間にか、皿洗いの事を取り憑かれたように考えていた。
別に僕は皿洗いのプロになりたい訳ではない。もちろん皿洗いのプロがいるかも分からないが、とりあえずそんな存在になりたい訳ではないのだ。
なのに皿洗いの事しか考えられなくなっていた。
要するに洗脳という事なのだろう。
今、よくよく考えればシェフの言動で明らかにおかしいところがあった。
僕は初日に皿を5枚も割ってしまった。
あれはどう考えても減給に値する。
けれど給料を渡す際には、それに言及する事はなかった。
つまり初めから話す内容も決まっているという事だろうか。
話す言葉も給料もこちらをコントロールする道具でしかないという事なのだろう。
あるいはあのシェフすらも僕らと同じように、コントロールされた存在でしかない可能性があった。
僕は立ち上がった。
すぐさまタコ部屋を出た。
クレメンタインに一言申しつけてやる。
どころか、こんな労働契約を破棄してやる。
僕の体は明らかに悲鳴をあげていたが、構わず飛び出した。
今なら、まだ、お店の集計などで、ビストロヘブンにクレメンタインはいるかもしれない。
何がヘブンだ、と思いながら隣のお店に向かった。
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