第5話 ブラックに働こう!

 ビストロヘブン。

 それが酒場の名前だった。



 僕はクレメンタインに誘われて、ここで働く事にした。

 契約書も交わした。

 契約の精霊に取り憑かれた契約書の為、契約を破ったら精霊より罰が下るらしい。

 どういった罰かは詳しく書かれていなかった。



 基本の内容は労働における契約書で、ざっとしか読んでいないが賃金も歩合制ではあるが悪くない。

 何よりピンハネがないのが決め手だった。

 また解約は双方の合意か、片方の死によって成立するとの事だった。



 少しギョッとする文面だったが、こういう街なので死は常に隣にあるのだろう。

 仕方ない事だと思えた。


 

 他にも色々と気になるところはあったが、とりあえずすぐに署名した。

 もう夕方だったし、なにより寝床を提供してくれるというのだから、僕は飛びつくより他なかった。



 ただ、ハンガリーはこの条件を飲まなかった。本人曰く、こういう接客業にあっしは向いてないんでさぁ、との事だった。

 手の器用さを活かせる仕事を探してみるとの事だった。

 


 人それぞれ向き不向きはあるし、それもまぁ仕方のない事なのだろうと思えた。



「じゃあ、ジョンブールさんはあっちの部屋を利用してね」

 僕はクレメンタインに部屋へ案内された。

 今、僕がいるここは従業員寮という場所で、そこの一部屋を使って良いとされていた。


 

 二階の廊下を進む。

 クレメンタインが指さした部屋へ向かった。

 床からギィ、と音がする。

 僕はようやく人心地ついた思いだった。



 明け方から馬車で運ばれ、半日でこの街にやってきた。

 周りは犯罪者ばかりで、僕は冤罪。怖かったし、何より僕は生きる能力なんてなかった。

 正直、生きていくのに不安でしかなかった。ましてや、妹の為に生きるというその目的さえ失ってここまできたのだ。

 僕はどう生きていけばいいのかという問いが、ずっと頭から離れなかった。



 もちろん、その目標を探すという部分は今もまだ不安だ。

 けれで、僕の持つ不安の一つはようやく解消された。



 そう安心して、ドアノブを回した。

 扉を開けた。



 部屋の光景が飛び込んできた。






 違和感しか、なかった。







 部屋はいわゆるタコ部屋というべきなのだろうか。

 ベッドが左右に四つずつ並んでいる。計八つベッドがあるが、内六つは人で埋まっていた。

 しかし誰も起きてはいない。

 この世の終わりのような顔をして、ベッドの中でただ、空中を見上げている者もいれば、ベッドに座り項垂れている者もいた。



 もう夕方だ。

 そろそろ酒場は開店の時間だというのに、誰も起きていない事が不自然でならなかった。

 


 いや、起きていない訳ではないのかもしれない。

 起きれないのかもしれなかった。

 

 


 僕が部屋に入ってきた事に気づいた人間が一人だけいた。

 ベッドに座って項垂れていと一人だ。

 その男が僕を見た。


 

「何だ、新人か--」



「--よくこんな地獄のようなところに来ようと思ったな」



男はそう言った。



 僕は何を言われているのか、さっぱり分からなかった。



◇ ◇



「返事は全て、サーイエッサーだ!! 分かったか薄汚い豚ども!!」



 調理場で、そんな怒号がシェフから飛んだ。調理場に一列に並べられたすべての従業員が、サーイエッサー!! と大声で返事をする。

 その一列に並ばされた中に、僕も入っていた。


 ただ、僕は何も言えなかった。

 働く時間になってから、急にここに来いと言われ、並ばされた。



 理解が追いつかなかった。



「一人、返事がなかったやつがいるな! お前、名前は?」

シェフがいきなり僕を指名した。

「……ジョ、ジョンです」

 僕は偽名を名乗る事にした。

「誰が名前を名乗って良いと言ったぁ!! お前の返事はまず、サーイエッサーだ!」

「は……、サーイエッサー!」

「よし、今日のところは許してやろう! 明日から、サーイエッサー以外をしゃべろうものなら、まずは減給だ! 覚えておけ!」

「サーイエッサー」



 何だこの職場は?

 サーイエッサー以外しゃべれないのか。



「では、新人! 貴様の今日仕事は皿洗いだ! 俺が良いというまで、ひたすら洗い場で皿を洗い続けろ! いいな!」

 サーイエッサー! 

 とりあえず返事はした。


◇ ◇


「では、本日の給料を渡す! 一列に並べ! 一人でも列を乱す者がいたら、本日の給料は無しだ! 分かったか薄汚い豚ども!」



 今日、僕は一日中皿を洗っていた。

 一枚洗えば、また一枚、また一枚と皿がやってくる。

 ただ、あまりに物凄い勢いで皿がくるものだから、焦って五枚ほど皿を割ってしまった。

 


 皿を割って申し訳ない気持ちはあった。

 だけど何も感じなかった。

 体が悲鳴をあげていたのだ。

 立ちぱっなしという、疲れもある。

 何より手が痛い。

 ほぼ、同じ動作の繰り返しの上、洗い物をずっとしていたのだ。

 指などは限界を迎えていた。



「貴様の今日の働きは--」

 僕の順番が回って来た。

 シェフの前に立つ。



「--10レジ(=1000円)だ!」

 シェフが大声でそう言った。

「……は?」



 僕は思考が止まった。何を言われているのか、さっぱり分からなかった。

 確かに歩合制とは言われていた。だけど、クレメンタイン曰く平均で50レジはもらえるとの事だった。

 それをたったの10レジ?

 あまりにも少なすぎるだろう。



「サーイエッサーはどうした?」

「……サーイエッサー!」

「何を不満そうな顔をしている? 貴様は今日から入ってきたのだろう? そして、貴様の今日の働きを考えれば、その程度が妥当だろう。それとも今日、貴様は文句を言えるほどの実績を上げたのか?」

「…………」

「分かったのなら、すぐに部屋に帰って休め! 今の貴様にできる事は、体を休め、明日には最高のパフォーマンスを出せるよう努めるだけだ! いいな、薄汚い豚が!」

 そう言って、シェフは銅貨を一枚、僕に渡した。


 

 何故こんなところに来てしまったのだろうか。

 僕の頭の中では、そんな言葉が響いていた。

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