第29話 元世界への帰還。
「貴女のような“聖女”など必要ありません。
あんぐりと口を開き、呆気にとられていた聖女はふるふると顔を振り、意識を取り戻す。
「さっきから貴方、何を言ってるの? 底辺の神官ごときが聖女である私に向かって、偉そうに!」
目の前の眉目秀麗な顔が、まるで残念なものを見るかのように変化したことに気がつく。これ以上、こんな下っ端の神官に侮辱されるのは耐えられそうにない。
聖女エレナはベッドから起き上がるとその場から逃げるように部屋を出た。
エレナはテオドールの執務室へと夢中で走った。彼ならきっと助けてくれる――そう思って走り出したのだが。ふと思い返した。なぜ自分は倒れていたのか、と。
『僕らが“婚姻の誓い”を立てたこと、父上に報告しないとね』
――そうだ、思い出した。
あの令嬢が元婚約者のテオドールに媚薬を盛ったのだ、と。断罪されるべきは、あの“悪役令嬢”――オリヴィア・エイベルである、と。
テオドールの執務室の前まで来ると、エレナは息と髪を整え、扉をノックする。部屋の内側から聞こえるいつもの優しい声。ガチャリと開くと――目の前にはたった今、彼に話そうとしていた悪役令嬢の姿があった。
「何で……貴女がここにいるの? もう婚約者でもないくせに!」
ソファに座ったまま、驚いた表情をするその令嬢に余計に腹が立つ。テーブルには淹れたての紅茶と色鮮やかな菓子が並べられている。そして、その隣には――彼女の手を握るテオドールの姿があった。
一歩ずつ、近づいていくと、テオドールが徐ろに立ち上がる。まるで彼女を庇うかのように。
(ああ、テオドール様。可哀想に。やっぱり、薬を盛られたんだわ。そうでなければ、あんなに素敵な笑顔、悪役令嬢なんかに向けるはずないもの)
中庭で初めて見た、彼のとろけるような笑顔。
前に噴水の前で彼女に会っていたときは、とても困った顔をしていた。婚約解消に応じてくれない彼女に困惑していたのだ。そんな彼女に向けるような笑顔でも、ましてや甘い言葉など、本心でかけるはずがない――
「そうなのですよ、聖女様。彼女はもう私の婚約者ではありません」
エレナはテオドールの言葉に『良かった。媚薬は盛られてなかったのだ』と胸を撫で下ろした――
「彼女はオリヴィア・ハンネス。――私の妻です」
満面の笑みを浮かべてオリヴィアを見つめるテオドールにエレナは今日、すでに何度かしている呆気顔になる。
「それで? こちらには、なぜ?」
今までには向けられたことのない冷たい声と視線に、エレナは戸惑う。――やっぱり。すでに媚薬を盛られてしまったに違いない。
あの隠し部屋の棚にもあったということは、この世界に存在するということだ。きっと彼女はそれをテオドールに使った。それはまさしく“悪役令嬢”の所業だ。
「テオドール様、貴方は彼女に騙されています!」
エレナはオリヴィアに向けてビシッと指を差す。困惑したように、瞳を瞬かせるオリヴィアが憎い。どうすれば、テオドールを正気に戻せるのか。そう思い巡らせていると、
「まさか。私が薬を飲まされた、とでも?」
その言葉に目を見開き、顔を上げる。
「上位神官ともあろう者が、薬を盛られるなど――ありえません」
はぁ、と息をつくと、テオドールは呆れたようにエレナを見た。
「そもそも僕はリヴィ以外、興味ないからね。君のことも正直、どうでも良かったんだけどさ。異世界からきた聖女様だっていうから丁重にもてなしてただけなのに勝手に勘違いされて。ほんっとに、いいメイワク」
突然、態度と口調が変わったテオドールにエレナは、さらに狼狽える。もうエレナに対し、取り繕う必要がなくなったテオドールは、さらに追い打ちをかける。
「神聖力を遣って監視するとか、ありえない!! あーっ! 今、思い出しただけでも気持ちが悪い」
放心状態のエレナを見て、ソファに座ったままのオリヴィアがテオドールの腕を引っ張る。
「テオ、言い過ぎ」
「いいんだよ。もう二度と間違えないっていったでしょ?」
アルフレッドにも優しすぎるって言われちゃったし、と肩を竦めた。
「――お呼びですか?」
開いたままになっていた執務室の扉の向こうから音も立てず、優雅に歩いてきた本人に、テオドールは気まずそうな顔をした。
先ほどの青年が現れたことで、現実に戻ってきたエレナは“ふんっ”と鼻で息をした。
(テオドール様に敬語――やっぱり下位の神官じゃない!)
そんな奴に『必要ない、帰れ』と言われたのかと思うとやはりムカムカと腹が立ってくる。
「テオドール様! この神官に酷いことを言われたのです! この人を神殿から追放してください!」
「……あのさ、僕も君に結構、酷いこと、言った自覚があるのだけど」
肩を竦めてオリヴィアを見ると彼女も不思議そうに首を傾げた。
「あとね、この方が誰か、理解している?」
「えっ……“この方”?」
「そう。彼は、時の大神官様だよ?」
「え? 嘘よ……だって、彼から何の神聖力も感じられないもの!」
テオドールが大神官アルフレッドに視線を向けるとこくりと一つ頷いた。
「貴女がなぜ、私の神聖力を感じられないのか、お教えしましょうか?」
未だに信じられず、アルフレッドを睨むエレナに現実を伝える。
「貴女にはもう、神聖力がまったくなくなっているから、なのですよ」
「は?」
「では。今、テオドールの神聖力は感じますか?」
「え?」
アルフレッドからテオドールに向き直り、じっと見つめる。エレナの顔が、みるみるうちに青ざめていく。
エレナが大神官の神聖力を感じられなかったのは、魔女と共に聖女の神聖力も封印されたから。もう何も持っていないのだから、感じることもない。
「ですから、私は貴女に
「で、でも……今まで帰れた人なんて――」
あの日記には、誰一人、帰った記録はなかった。無理やりにでも必ずどこかに嫁がされている。
「確かに。今までの聖女様に戻れた方はおりませんが――エレナさん、貴女は特別です」
アルフレッドは“これは本当にすごいことなのですよ”と大げさに言った。
“特別”などと言われ、舞い上がらずにいられる人は、なかなかいないのではないか。エレナもそれについ舞い上がってしまった一人である。
「本来であれば、神聖力の弱い聖女や全くない聖女は王家や由緒ある家柄に嫁いでいました。しかし、貴女は本当に幸運なのです! 元の世界に戻れる、特別な手段があるのですから!」
アルフレッドは有無を言わさず、エレナを誘うように執務室から連れ出す。その後を追うようにテオドールとオリヴィアもついていく。
――すべてはここから始まった。
神殿にある普段はあまり使われていない召喚室。すべてが始まったこの場所で今、すべてを終える。
細かく描かれた魔法陣は、もはや芸術のようだ。その上にはアルフレッドに視線を向けられて、動くことも、話すことも叶わないエレナが、一人、呆然と立ち尽くす。
すでにその部屋に来ていたイシュメルとハリオスが所定の位置についている。後から来たテオドールとオリヴィアも魔法陣を囲むように位置につく。
エレナから視線を外さないアルフレッドが静かに手を向ける。同じように他の四人もエレナに手をかざすと、アリナを封印したときのような柔らかい光が魔法陣から放たれる。
オリヴィアの手元には、また鍵が浮かび上がってくる。しかし、目の前にあるのは錠前ではなく、扉だった。その扉に鍵をしようとした瞬間――
「イヤよ! 嫌っ!! テオドール様ぁっ――」
自動で開いたその扉の中へと、エレナは、まるで吸い込まれるようにして消えていき、バタリと扉が重厚感のある音を立てて閉じた。
「さぁ、リヴィ。しっかりと、鍵をかけてね」
にっこりと微笑みを浮かべるテオドールとアルフレッドに挟まれたオリヴィアは、思わず、いつもの苦笑いを浮かべてしまっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます